手記「GSXと私の入院生活の楽しい思い出」

(オユタのレポートその2)

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この話の中で登場する看護士は、全員女性である。(これ、重要。)

 1990年12月14日からこの話は始まる。当時、私は青森県八戸市の、とある大学の3年生だった。
 午後一番の講義が休講になったので、昼飯を食べるべく下宿に戻った。カネの節約の為という理由から、平日の昼飯はほとんど抜きで、学食にはまれに行くくらい。下宿で出される朝飯、晩飯でおぎなう生活であった。それでも米は実家から送ってもらっていたので、休日やこの日みたいに時間のある時には、自分の部屋にある電気炊飯ジャーで飯を炊いて食べていた。
 今日のメニューは、牛スジのカレー。ルーはフォンドボーディナーカレーで、同じ下宿で同じ電気科のあっちゃんが「うまい!」と絶賛するルーだ。確かに、上品な味わいと深〜いコクがある。こいつに単価の安い牛スジだけを入れ、ガスボンベ式のコンロ「白い恋人」(下宿の部屋は火気使用禁止だったような気もする)で煮込むのだ。楽しみである。
 同じ下宿のモリタ氏と2人仲良く帰宅。私のGSX-R400はモリタFZR400号の後ろにくっついてテールツーノーズで下宿に向かう。道中にはアップダウンを伴うセンターラインのない緩い左カーブ(帰路時)があり、いつもここをハングオンし、いかに速くクリアするかを生き甲斐としていた。ここは先が見通せない場所であり、近くには住宅もあるから、人にぶつかる可能性もあったであろうが、若かりし当時はそんなことはつゆとも考えず、このカーブを通過する度に無謀な練習を重ねる毎日であった。
 10時55分。いよいよ例のカーブ。GSX-R400は前後タイヤ、ブレーキパッド、エンジンオイルを交換した直後なので完調。モリタ号をあおるべくハングオン!負けじとモリタ号もハードブレーキングから加重を前輪に移し残したまま遠心力に打ち勝つべくハングオーン!絶妙なサスペンションストローク、タイヤもトランクションがよく掛かり、お互いハイペースでコーナーに進入していく。「決まった〜っ!」が、次の瞬間、なんということであろうか!?あわやモリタ号は対向車と正面衝突しそうになっている!パニックブレーキにより、リヤタイヤはグリップ力を失い、ツルツル蛇行!「おいおい、大丈夫なのか〜っ!?」だがしかし、彼は見事な回避術を使い、間一髪衝突を免れたのである。
 「やるな〜、モリタ。危ないところだったなぁ…。」などとホッとしている場合ではなかった。気付けば、こちらは全意識がモリタ号に向いていて、自分のコーナリング等々一連の作業はすっかりと忘れ、カーブを直進していた。目の前には次なる獲物を狙う軽ワンボックスカーが!
 「か、回避行動を!!」刹那の時間、頭脳と五感はフル回転。瞬間的にあらゆる回避パターンが計算されていく。スーパーコンピュータも真っ青だ。そして、導き出された最適な結論に従ってとった行動は…。「ダメだぁ〜っ!」とあきらめて、一応ブレーキをかけつつ、ギュッと固く目をつぶったのであった。アーメン…。

  バキムッ!!

 後日、モリタ氏は語った。「…そうなんです。ミラーで後方を見たら、クルマに衝突し、ハンドルを持った手を支点として乗車姿勢の形を保ったままシートからお尻が宙に浮いていて、まさに前転しようとしている彼が見えました。バイクを停めて振り返ったら、アスファルト上をゴロゴロと転がっているところでした…。」

 しばらくして、おもむろに目を開けると、青い空が見えた。どうやら生きてはいるようだ。体調にもとくに異常なさそうな感じ。モリタ氏が「おい大丈夫か!?」とバイクを降りて駆け寄ってくる。上半身を起こして立ち上がろうしたら、「あれ?」右足の付け根に激痛が走って起きあがれない。そのまま道路脇に足を投げ出して座っているしかなかった。
 マイマシンは…、フロント周りがつぶれて道路脇に転がっている。軽ワンボックスも運転席の角がつぶれていて(フロントガラスは割れていなかったが)、事故の激しさを物語っている。おじさんは顔を真っ赤にして「なんてことをしてくれるんだ!!これから重要な商談があるんだぞ!!あ〜、遅刻だ〜っ!!」と怒りまくっている。モリタ氏は「おめーがセンター割ってきたんだべ!」とおじさんにつかみ掛かろうとしたが、「いやいや、こっちが突っ込っこんだんだから。」と、モリタ氏を制止し、暴力沙汰は免れたのであった。
 間もなく、犬の散歩をしていた人が呼んでくれた救急車が来て病院行き。初めての救急車体験はといえば…、うーん、よく覚えていない。
 最初の収容先の病院は、湊(みなと)病院。医者は「折れてます。1ヶ月、うーん、3ヶ月かな?」と軽いノリで宣告した。「えー?まさか、そんなに掛かるはずないんじゃないの?」と内心思ったものだが、結果は本当に3ヶ月だったので、あの時の診断は確かなものであった。
 ギプスで治す方法もあるが、筋力が弱ってしまうので、骨に金具(ボルト)を入れて固定するという治療方針らしい。しかし、湊病院では骨固定の手術はできないらしく、近日中に比較的近くにある青森労災病院に転院するとのこと。かくして、足を器具で固定されてベッドに寝たきり状態になってしまったのであった。
 その頃、父のもとへ下宿先の大家さんから連絡が入っていた。不吉を告げるオペレーターの声。「コレクトコールです。」決して大家さんがケチだったのではないと信じたい。父は午後3時に松本駅発の電車に乗り、午後9時八戸着。その夜は下宿に泊めてもらった。翌朝、朝飯をごちそうになり、雪が積もる中、革靴がツルツルと滑りながら徒歩で湊病院に向かい、見舞った後、その日のうちに地元に戻ったらしい。しかし、湊病院で父と会った記憶は全くないのであった…。
 食事は、手を使えたのだが、なぜか看護士が食べさせてくれた。寝たきりのせいか、そういう扱いの患者なのだ、と言っていた。Mさんという看護士がいて、これがまた、黒目がちでヒジョーにかわいらしく、ある時その人が食事の介助であった。うれしいはずなのだが、彼女に飯を食べさせてもらうのはとても照れてしまい恥ずかしかったので、「自分でできるのでやります。」と自分で飯を食べたら、それ以降食事の介助はなくなってしまったのであった…。
 なんといっても事件だったのは、好きだったナオちゃんが見舞い来てくれて、ケーキを差し入れてくれたことだった。ナオちゃんはガソリンスタンドに勤めていた。どうやら下宿の仲間が給油の時に伝えてくれたらしい。2人の仲はビミョーな距離を保っていて、この機に乗じて一気にプッシュしたいところだが、当たり障りのない会話で終了…。「また来るね。」と言い残したナオちゃんは、だが、それから2度と姿を見せることはなかったのであった!(夜中、八戸のフェリー埠頭を誰かのクルマの助手席で流している姿を目撃されている。彼女はもてる人なのであった。)
 そのケーキであるが、骨折して寝たきり、フォークや皿もないし、すぐには食べる気にならず、しかし食べないと悪くなるし、壁の方に上半身をねじってかぶりついていたら、まるで腹をすかせた獣がガツガツと獲物をむさぼり喰っているかのように見えたに違いない。ちょうど病室に入ってきた看護士が、「おっとぉー!」と悪いものでも見てしまったかのように後ずさりしていた。
 3日後、青森労災病院に転院。看護士曰く、「右大腿骨頸部骨折の患者と聞いていたので、お年寄りだと思っていたら若かった。」とのこと。大腿骨の付け根はひょうたんみたいな形になっているが、くびれの部分が折れたのだ。ここは、老人がよく折る場所らしい。老人は運動能力、骨とも弱っており、転ぶとここが折れ、そのまま寝たきりになってしまうことが多いらしい。
 ここの病室でも足を固定されて寝たきり。手術の予定がギッチリ詰まっていて、なかなか自分の番が回ってこず、1週間以上はそのままだった。
 病室は6人部屋で、やはり大腿骨頸部骨折(左足だったが)をした人が向かいのベッドにいた。漁師さんで、甲板で滑って転んでしまったとのことだ。「早く手術して復帰してえなぁ〜。」と言っていた。生活が掛かっているから切実だ。
 左のベッドには、寝たきりで、声を出さないおじいさん。看護士達が足を曲げて動かすと「痛い痛い!」とたまーに言う。声を発すると、「しゃべれるじゃなーい。」と、看護士達は大喜びし、更に運動させ、痛い痛いと言わせていた。このおじいさんの介護に来ていたのは、ペコちゃんみたいな顔をした、穏やかで人の良さそうなおばさんであった。
 右のベッドには、左足の付け根を少し残したまま足を取ってしまったおじさん。義足がうまく操れずに苦労していた。
 向かいの左には、かかとに悪性の腫瘍ができたので足首から取ってしまったおじさん。しばらくの間、夜中じゅう「いてぇいてぇ…。」と、とてもうるさかった。全く想像もつかないのだが、本来ある物がなくなるというのはとても痛いらしい。痛み止めの薬は回数が決まっているのに、「いいからくれ!」とうるさく、こまった看護士は仕方なく痛み止めを投与していた。それでも日数が経つごとに痛みは和らいでいくらしく、やがて痛いとも言わずに元気になった。
 後から入ってきたおにいさんは、向かいの右側に陣取った。足を骨折して下半身麻酔で手術していた。「下半身麻酔は息苦しい。」と言っていた。息を吸うのは口からなのに、下半身麻酔で息苦しくなるとはなぜなのだろうか?
 排泄はオマルでしなくてはならない。オマルなぞ使ったことがない。しかもベッドの上で、である。カーテンで仕切るので排便姿は見られないとはいえ、“大”は臭う。恥ずかしい。
 どなたかが大をした後、ある看護士が部屋に入ってくるなり、「うーん、クサイ、臭いねー。窓開けようか。」と窓を全開にしていた。しかし、この状況で糞をひねり出さなくてはならない人間の気持ちも考えて欲しいものである。そんなにクサイクサイ言うなよな〜。
 さて、自分である。手術後まで耐えようとしたが、いくらなんでも体に悪い。仕方ない、決行だ!しかし固まっていてなかなか出てくれない。挙げ句の果てには小を失敗して的(オマル)を外し、シーツを濡らしてしまった。寝たきりのまま、看護士が数人がかりでヨッコイショ、と体を持ち上げてシーツを換えていた。まさに看護士とは体力勝負の仕事である。
 ある時、なんとなく沈んだ気持ちでいたら、看護士のKさんが慰めてくれた。Kさんはちょっと太っていてマシュマロマンみたいな人である。肝っ玉かぁさんといった趣だ。「元気ないね。なに?私の顔みたら気持ち悪くなっちゃった?」その自虐ネタに、ありがたくてちょっと涙が出てしまった。
 合コンをしたことがある看護学校生が病室に見舞いに来た。いや、なんとなくキャピキャピと楽しんでいた風だったので、見舞いというか、冷やかし?見物に来た?やはり彼女たちも2度と顔を出さなかったのである…。
 ちょうどクリスマスシーズンで、病院の食事にもケーキが出されていた。わびしいクリスマスではある。といっても彼女と2人きりのクリスマスなんていうのは、その後の人生においても経験がないので、関係ないと言えば関係ない。
 下宿の誰かは忘れたが、ケーキを丸々1個差し入れてくれた。とても1人で食べることができないので、アジアンな雰囲気の漂うOさんという、同い年くらいの看護士にそのままあげた。「仕事が終わったら持ち帰るね〜。」と言っていたのに、翌朝、ベッド脇のイスの上にそのまま残っていた…。(残念ながら、そのケーキの末路は覚えていない。)
 クリスマスイブに父が2度目の八戸入り。病室で泊めてもらおうと思っていたら、「完全介護なので泊まれません。」と言われ、途方に暮れて交番に行くと、宿泊施設は近くのラブホテルしかないとのことで、1人寂しく泊まったそうだ。翌日、レンタカーを借り、バイク屋さん、自動車屋さん、相手のおじさんのもとへと出向き、事故処理、入院手続き等をして帰郷していった。おじさんは走行数千キロでほとんど新車だったから新車でよこせとごね、父も、そもそもぶつかった息子が悪いしなぁ、と思って新車にしてあげたらしい。でも、事故車は予想外の高値で引き取ってくれたので、なんとか20万円くらい足が出ただけで収まったそうだ。
 そんなこととはつゆ知らず、親不孝者の寝たきり生活は、しかし暇であった。看護士が点滴の量を計算するのに、自分の腕時計で時間を計っているのでなぜかと聞いたら、1ccが15滴だから、例えば1分で1cc注入するのであれば、1分で15滴落とすのだ、と言っていた。(ほんとーに1ccが15滴だったかは忘れた)看護士には高度な(?)暗算能力も必要だ。
 さて、いよいよ待望の手術日となった。これで寝たきり生活とはおさらばだ。看護士のNさんに太ももあたりの毛を剃られてしまった。さすがに陰毛は剃られなかったように記憶しているが、ちょっと恥ずかしいものだ。
 手術は全身麻酔で行われた。電球が円形に配置された、テレビでお馴染みの照明がある。麻酔投入を開始したらしいが、全くなにも起きないので、手術室をキョロキョロと見回したりしていたら、「なにキョロキョロしてれ!?」と先生に言われた。…と次の瞬間、子供の頃、泣き過ぎで酸欠になると景色が白黒になり、ザラザラとノイズっぽくなってくる、あの感じが突然にやってきて、あっという間に意識がなくなった。死ぬ時には景色は白黒のザラザラとしたノイズとなって意識がなくなり、目が覚めることなく、土に還っていくのに違いない。
 気が付いたらエレベーターを出たところらしく、ストレッチャー(よくドラマなんかで病人が運ばれている車輪つきの台)でゴロゴロと運ばれていた。口になにか入れられたみたいだけどなんか気に入らなかったのでおかまいなしに唾ごとウベーッと出してやったら、看護士が「あっ、ごめんね!」とあわてていた。普段は、有無を言わさず唾ごと口の中身を吐き出すということはあまりしないのに、こういう場面になると人間わがままになるのだ。
 手術は3時間にも及び、長かったらしい。出血もひどく、輸血も検討されたそうである。(先生は若かったので経験不足の為に何かやらかしたのではないか?と実は密かに疑っている。輸血は何かと問題が多いので、されなくてよかった。)傷が痛かったら痛み止めを使うとのことだったが、この時は、なんとか痛みには耐えた。
 しばらく、尿は管から出した。最初は違和感があって嫌だったものの、慣れてしまうと勝手に尿が出るので快適になってきて、外す時は非常に残念に感じてしまったものだ。
 やがて車イスで動けるようになった。車イスでウィリーする患者もいたが、自分はひっくり返ると痛そうだし、やらなかった。生意気な感じの高校生がいて、原チャリで崖から落ち、下半身不随になってしまったと語っていた。命があるだけましだ、と言っていた。時々頭がひどく痛むらしい。彼は元気にやっているのだろうか…。
 しばらく足を伸ばしっぱなしにしていたので、徐々に膝を曲げるリハビリを行った。早く復活させたくてゴイゴイと膝を曲げていたら、漁師のおじさんよりも早く曲がるようになったものの、無理をしすぎたらしく、膝の筋がズキズキ痛んでしまった。無理は禁物だ。
 動けるようになったとはいえ、やはり入院生活はとても暇で暇でやっていられなかった。それでも、車イスから松葉杖(階段の上り下りが非常に怖かった)になり、2ヶ月くらいすると、だんだんと生活のリズムができてきて、雑誌を読んだり、のんびりと過ごして、快適に思うようになっていたのであった。シーツ交換も自分でやれるようになった。
 缶コーヒーのプルタブを集めるプレゼントに応募した(当時はプルタブが缶から完全に分離するのが一般的だった)。休憩所でコーヒーを飲んでいる人からもらいまくり、かなりの数を応募したように思うが、結局数ある商品のうち、腕時計が当たっただけだった。
 病院内では、食事の後に廊下や階段をグルグルと、せかせか歩き回っている人々がいた。最初は何をやっているのかな?と思っていたが、糖尿病の患者達で、そうしないといけないのだそうだ。
 事故から3ヶ月が経ち、医師からそろそろ退院してもいいと言われたが、まだ松葉杖がないと歩けないし、当時は看護婦、ナースと呼んでいた、そのなんとも甘美な響きの女性達と別れるのが惜しくって躊躇した。親戚も看護士の女性と結婚したし、このまま入院していたら、ひょっとしてロマンスが芽生えるかも…。しかし、大学を3ヶ月も休んで勉強が遅れており、単位もやばいという現実が退院を決心させた。(入院生活後半は誰も見舞いに来なくなり、みんなから忘れられているのでは?というあせりもあったかも知れない。)
 単位取得といえば、学年末のテストを控えていたので、当然その為の勉強が必要になる訳だが、暮らしているのは病棟の6人部屋でいつも騒がしいし、夜も9時消灯では勉強時間に心配があった。看護士に相談したところ、特例として午後9時以降に処置室だかなんだか小部屋を使うことを許可してくれた。
 おお、白衣の天使様よ。早速、ありがたくご厚意に甘え、病棟が消灯後、小部屋に1人こもる。3ヶ月間遅れてしまった分を取り戻さなくてはならない。ノート、筆記用具を引っ張り出す。ノートをビリビリとちぎり四角く小さな紙片を作成。下宿の先輩から、代々伝わるテスト問題用紙は取得済みだ。そして、小さな紙片に、テスト問題とその解答を、せっせとこまか〜い字で書き写す。細心の注意を払い、できるだけ小さく、だが読める字で…。細工は流々、仕上げをごろうじろってな感じである。
 しかし、途中まで仕上げてふと、「せっかく貸してくれているこの部屋でカンペ作りにいそしむなど、看護士さんへの裏切りではないのか?」と罪悪感にかられてしまった。…細かい字の書かれた小さい紙片をクシャクシャと丸め、ゴミ箱へ。記憶力だけを頼りに「先輩からゲットしたテスト問題とその解答の暗記」を開始したのであった。(「教科書とノートの暗記」をしたのであれば素直に偉いと言えると思うが、これについては大目に見ていただきたい。)

 退院後、当然病院へ診察に行かなくてはならなかった。松葉杖ではとても歩ける距離ではない。かといってバス、タクシーにお金を使うのももったいない。という訳で、下宿の先輩からMBX50を借り、松葉杖を背負って、診察日の朝、寒い中を病院まで走行した。バイクで事故を起こし、痛い目に遭っておきながら、再びバイクに乗ることに対しての抵抗は…全くなかった!ただ記憶にあるのは、「寒かった。」ということだけである。
 診察まではまだ時間があったので、本当は面会禁止の時間なのだが、もといた病室を訪れると、みんな元気で歓迎してくれた。
 傷を寒風にさらしたせいで、負傷した部分のすじがこわばったようになり、数日間は痛くて痛くてたまらなかった。傷に冷気は大敵だ。
 金具は1年くらいで抜くとのことだ。問題としては、レントゲンでは分からない、周辺の細かい血管が切れていると骨に栄養が行かずに腐ってくるらしい。それは1年後くらいに起きてくるから、要注意だと言われた。

 ちなみにGSX-Rは、購入先の五戸のバイク屋がレッカーで運んでいった。タイヤ、ブレーキパッドは新品だったので、廃車になったものの幾らかは戻ってくるのではないか、と勝手に思っていたのだが、甘かった。処理料こそは取られなかったものの、レッカー代を1〜2万円くらい取られてしまった。あのバイク屋の親父は、眠たような目をしていて人が良さそうに見えるが、値切りにも応じず意外とケチだったし、タイヤとパッドは中古品として売りに出されたに違いない。いや、もしかしたらフロント周りを修復し、バイク自体そのまま売りに出されていたかもしれない。「修復歴無し!」

 結局、金具は大事を取って2年経ってから、実家の地元、松本市の国立病院で抜くことになった。どうやら骨は腐っていなかったらしい。(大学は留年せずに無事卒業したのだ。なんと、あのときの期末テストではかつて無い高得点を獲得したのである!)
 傷はみみず腫れになっていた。ケロイド体質の人はこうなることが多いとの医師の説明を聞いて、「そうなんですか。こんな痕になるなんて、へたくそな医者だなぁ、と思っていました。」と感想を述べたら、1人だけ「ぷぷっ…。」と吹き出した看護士がいたが、医師と他の看護士達はにこりともせず、その彼女はばつが悪そうであった。
 まずは浣腸。どうしたって浣腸は苦手だ。絶対に我慢できない。すぐに腹が痛くなって出してしまった。お次は下半身麻酔。青森労災病院で同室だった患者から、下半身麻酔は息が苦しい、と聞いていた。下半身なんか呼吸と関係ないだろうに、そんなことあるのか?と半信半疑だったものだが、本当に息苦しかった。
 そして手術開始。金具がなかなか抜けないようで、医者は苦戦していた。麻酔で麻痺しているので痛みは感じないが、かなりぐいぐいと引っ張られているようだった。医者は、「よいしょ、うん、うん、バキッ!」と言ってノリノリであった。看護士が「先生、ダメですよ、そんなこと言っちゃ…。」と小声で制止していた。まさに、まな板の上の鯉とはこういうことか、と実感した瞬間であった。おまけに、浣腸が不完全だったのか、液体うんちが漏れているらしく、お尻も拭き拭きされている様子。術後“まな板”のシーツにはうんちジミが。なんともみじめである。
 手術は無事終わった。麻酔が効いている間、試しに雑誌のエッチっぽいページを見て、股間がどうなるか試してみたが、反応はなかった。しかし、それは麻酔のせいなのか、病室という環境でそんな気分になれなかったのかは定かでない。
 夜中に傷口がズキズキと痛み、我慢できずに看護士を呼んだ。無愛想な感じがしてあまり好きではなかった看護士に座薬を入れてもらった。ちょっと不本意ではあったが已むを得ない。だが、そのおかげで痛みは薄れ、ぐっすりと眠れたのであった。ありがとう、無愛想な看護士よ。

 金具を取ってから10年以上が経過した。日常生活では全く問題はないものの、なにかの拍子に右股関節がとても痛いことがある。激しい運動はダメである。やはり骨折はしないに越したことはない。 (とか言いつつ、スキーに行きまくり、コブも思いっきり攻めた。こういうのは激しい運動というのだろうか?)

 バイクはというと、懲りもせず、事故以来6台乗り継いでいる。別に乗るのが怖くなったということはない。事故で得た教訓があるとすれば、次のふたつだ。

 ・見通しの悪い場所ではスピードを控えよう。
 ・万が一に備えて保険に加入するべし。

 父は会社の健康保険組合から「こんなに使って…。」と嫌みを言われたらしい。農協の保険に入っていたおかげで、治療費はまかなえた。万が一に備えて保険に加入しておくことは大切だ。万が一は結構高い確率でやってくるぞ。ただし、保険理論から言うと掛け捨てで十分だ!


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