平成31年(2019年)4月30日、それは平成最後の日。今日から5泊6日で中国地方を周るソロツーリングに出発である。新しい元号「令和」は姫路で迎えることになる。そして5月4日には彦根の宿で、やはりそれぞれのツーリングを楽しんだトモアッキィ、ヒロ、ヨージと合流して打ち上げだ!
9時20分に安曇野市の自宅を後にして、安曇野ICから長野自動車道で南下開始。さすがは10連休だけあって交通量が多い。今日の天気は曇り時々雨。これまでのところ曇りだった空は、塩尻ICの辺りで本格的な雨を降らせ始めた。カッパも含めて雨対策はした状態で出発したのだが、念の為チェックしようとみどり湖PAに寄ることにした。
みどり湖PAは大して混んでおらず、4輪用の駐車スペース(このPAに2輪用はない)にバイクを停車してエンジンをオフにすると、跨った状態でサイドスタンドを出してから左側に傾けたところ…そのまま倒れ込んでいくではないか!? カッパで着ぶくれていた為、サイドスタンドをちゃんと出し切れていなかったのであろう。1300ccの車体は支えることなど無理!もはや「立ちゴケ」は避けられない。新車で購入後、7年目にして初の立ちゴケ…。傷はつくが仕方あるまい。
こうなると体が車体の下敷きにならないように離れないといけないのだが、雨で足元が滑ってしまい、一瞬の遅れから左肩の上にカーナビがのし掛かってきた。ハンドル左側に装着している社外製のカーナビは、ハンドルを切ってもタンクバッグに干渉しないように、長めのバーを介している。それが仇となった。
カーナビの位置
すぐに体を抜いたものの、左肩に激痛が!それでも人目が恥ずかしいので、痛みに耐えながら必死に車体を起こそうとしていたら、隣に駐車していたクルマのオーナーさんが手伝ってくれた。有難い!バイク自体の傷は大したことなく、エンジンも一発で始動。
とはいえ、肩の痛みは尋常じゃなく、これではとてもツーリングを続行できそうもない。とりあえず跨ってみると、前傾姿勢はできた為、そのまま自走して帰宅した。ビックリしている妻子にジャケット等装備を外すのを手伝ってもらって、恐る恐る鎖骨を触ってみたら、なんと途中から窪んでいる!明らかに骨折だ〜っ!!
問答無用で医者に行かねばならないが、ゴールデンウィーク真っ只中で当番医は限られている。松本市内の某病院に電話をすると、診療は可能なので、救急車で搬送してもらうようにとのこと。そんな大げさなとも思ったが、今はよくても急変することがあるからだそうだ。確かに肩の角度次第では意識が遠のく程の痛みに襲われた。
そんな訳で、生まれて初めて救急車に乗る羽目になった。搬送中に怪我をした経緯を聞かれたり、脈拍、血圧等を測定された。救急車はとにかく乗り心地が悪く、ちょっとした段差でも大きくバウンドした。外も見えないので、酔ってしまいそうだ。
高速道路を利用してお昼頃に病院着。ストレッチャーからベッドに移されて、早速レントゲンとCTスキャンで患部を撮影。見事に折れていた。しかも複数に分割された複雑骨折!この時点で入院&手術が決定!プレートとボルトで骨を繋げるのである。今日は一旦帰宅して、明日入院、明後日手術というスケジュールとなった。
入院前の各種検査や説明を受けた後の会計時に請求された金額は、10万円近いという、とんでもないものだった。
救急搬送される際に、バイクで立ちゴケしたことは救急隊員に話していたのだが、交通事故扱いになっていたのだ。バイクに乗らない人は「立ちゴケ」という言葉に馴染みがないらしく、走行中の転倒事故と受け取られたようだ。交通事故の場合は自損でも健康保険組合に申請が必要となり、病院に対しては一旦100%の支払いになるという訳。そして救急隊員から警察署に連絡がいき、塩尻警察署から電話があった。状況を説明すると、高速道路なので、管轄が高速機動隊ということで、そちらにも説明しなくてはならなかった。本来であれば、現場検証が必要になるのだが、立ちゴケということであれば、事故扱いにはしないでおきましょう、ということになり、めでたく保険適用になった。(支払金額は少なくて済んだ。)
迎えに来てもらった妻に乗せられて帰宅。応急処置のクラビクルバンド(鎖骨固定帯)で肩を固定していたが、夜は痛くてほとんど眠れなかった。
翌日、令和元年最初の日、11時に入院。広々とした4人部屋だった。この日は入浴し、夜、右腕に点滴用の針を刺して寝た。(病院の消灯時間は21時。) 手術に対する不安はなかった。むしろ、バラバラの骨を早く繋げて欲しかった。
手術当日。11時からの予定だったので、妻が9時半頃付き添いに来た。腕には早朝からセルアセトDという電解質の液体を点滴し、手術に備えた。
ところが、前のオペに時間が掛かり、自分の番が来たのは15時を過ぎた頃だった。トイレを済ませ、いざ手術室に移動すると、手術台に寝かされ、テンポよく必要な測定機器を装着。口にマスクを当てて酸素と麻酔の混合ガスを吸わされ、腕には麻酔薬の注入が開始された。その麻酔薬が予想に反してえらく痛くて「こりゃ〜痛いもんだね!」と言った途端、時間が飛んだ…。
自分の名前を呼ばれて目が覚めると、既に手術は終わっていた。あっけないものだ。時刻は17時30分を過ぎていた。8時間も付き合わせてしまった妻に感謝。
夜はそのまま動かずに、点滴されながら一晩を越した。尿はオチ〇チンに入れた管(カテーテル)から排出されるので楽チンだった。ちなみにこの管は全身麻酔が効いてから挿入するので痛くはない。しかし傷口は痛い!痛み止めを投与してもらっても、夜中に何度も痛くて目が覚めた。
手術の翌日は朝から食事ができた。この病院は食事がとても美味しくて、毎回楽しみになった。カテーテルも取れて、早速リハビリを開始。痛さは相変わらずだが、庇ってばかりだと腕が動き難くなってしまうのだ。痛いのは仕方のないことで、痛み止めを飲みつつ日々を過ごしていけば、徐々に和らいでいくそうだ。しばらくの間は肘を45度までしか上げることができない。近々参加予定だったマラソン大会は諦めるしかなく、もちろんバイクにも当分乗ることができない。自業自得である。
さて、病院といえば「ナース」。白いワンピースにナースキャップは、昭和の男心を魅了してやまない。ところが、時代は変わった…。今では看護師と呼ばれ、病院にもよるのだろうが、頭には何もかぶらず、パンツスタイル。口にはマスクをして顔が半分見えないときた。そして何より、約半数は男性なのだ。(カテーテルを抜く時は男性看護師だったから恥ずかしくなかったけどね。)
GTEC結成は、メンバーで初の本格的なツーリングとして北海道に行った1990年、平成2年のことだ。(私のバイク歴はもっと長い。) 以来約30年間駆け抜けて、平成最後の日にこのような目に遭ったのは、なんとも運命めいたものを感じる。今回は完全に自分の不注意が原因ではあったものの、周りに心配や迷惑を掛けた。これが自宅から遥か遠くの地だったら?人里離れた場所で携帯電話の電波も届かず、救援の期待ができない状況だったら?独身ならいざ知らず、自分に万が一のことがあったら家族が不憫でならない。病室のベッドの上で色々と考えてしまった(暇だったから)。いつかはバイクを降りる日が来る。そのきっかけは何だろう?今回の一件はそれに相応しい「区切り」なのではないか?
答えが出ないまま、5月4日に退院した。少なくとも、今のバイク(BMW K1300S)は手放そうと心に決めて…。
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