2003年のツーリング

グレートツーリング '03 in 沖縄 & 九州
メンバー(マシン) ウメ(GSX1300R)、カンちゃん(YZF1000R)、ヒデ(CBR900RR)
 GTECの野郎6人中、バイクによる全国制覇を達成したのはウメ、ヒロ、マコちゃんの3人である。残り3人もあと僅かというところまできているのだが、沖縄を征していなかった。沖縄は遠い!しかも、バイクで走って特別楽しいところでもない。しかし、全国制覇の為には避けて通れないのである。というわけで、ついにカンちゃん、ヒデは決断した。ウメは、それなら沖縄本島の世界遺産を廻ってみたいと同行することにした。
4月26日(土) 天気:雨のち曇り
 那覇行きのフェリーが大阪南港を出港するのは、27日午前0時50分である。天気がよければ京都か奈良をゆっくりと見てから行こうかと考えていたのだが、今日の天気予報は長野から大阪にかけて雨のち晴れ。朝7時の時点では、雨が降っていた。3人で協議した結果、道がドライになってから出発しよう、しかし明るいうちに大阪に着くように行こう、ということになった。
 12時、長野自動車道みどり湖PAに集合。道はドライ。日も射しており、暖かい。ヒロとマコちゃん、ネーネと息子のぽ〜ちゃも見送りに来てくれた(オユタは出勤日)。バイクで来たヒロとマコちゃんは、松川ICまで一緒に走る。
 ヒデはジャケットの上から何やら黒いベストを着込んでいる。このベストはバイク用エアバッグなのであった。走行時、ベストとバイク本体をワイヤーで結び、事故で人が放り出された時にワイヤーが引っ張られ、ベスト内にあるボンベによって、救命胴衣のようにベストが瞬間的に膨らむという仕組みだ。ワイヤーを外し忘れてバイクを降りようとしても大丈夫。その程度の力では作動しない。「(ヒデ)使ってみて〜な〜。」おいおい。集合写真を撮った後、5人は出発した。

みどり湖PA
 しばらく5台でランデブー走行し、中央自動車道駒ケ岳SAで休憩後、松川ICで見送り組のヒロとマコちゃんは高速を降りた。「(ヒロ、マコちゃん)気を付けてなぁ〜!」
 ウメ、ヒデ、カンちゃんの隊列で大阪を目指す(以後この順番)。最初は暖かくてよかったのだが、恵那山トンネルを抜けた辺りから風が冷たくなり、空はどんよりとしてきた。天気は西から回復してくるんじゃなかったのか?
 名神高速の養老SAで給油。アスファルトの端は濡れており、さっきまで雨が降っていた気配が…。西の空は暗い雲が立ち込めている。風が更に強くなり、疲労が増す。
 大津SAで恒例の桜餅を食べ、あとは一気に大阪南港を目指す。何とか雨には降られないで済みそうだ。交通量は多いが、渋滞はない。
 吹田ジャンクションで近畿自動車道に入り、東大阪ジャンクションから阪神高速道路13号→16号→4号線とアクセスして、南港中ICで高速を降りると、ほどなく大阪南港に到着。18時であった。
 乗船手続きの時間までまだ4時間もある。とりあえず近くにあるアジア太平洋トレードセンター(ATC)に行って夕飯(ファミレス)&暇つぶしをした。ATCは様々なアメニティ施設やアウトレットモールなどを有する、関西でも注目のスペース、らしい。確かに、様々な店が入っていて、見ているだけでも楽しかった。デートにはお勧めである。
 22時、フェリーターミナルの窓口が開いた。過去に乗船手続きにおいて車検証を提示したことは1度もなかったので、ウメとカンちゃんはバイクのリヤシート下にしまったまま手続きに臨んだ。しかしヒデは念の為に車検証を持っていくことにした。…が、「(ヒデ)あれ?ない!?」。色々探してみたが、やはりない。前日の夜、ヒデは車検証がリヤシートの下にあると荷物を装着した状態では出し辛いから、タンクバッグの中に入れておこうと考え、一旦バイクから取り出した後…。「(ヒデ)え〜と〜、う〜ん、全く思い出せん!」恐らく家のどこかに置きっぱなしになっているのであろう。結局乗船手続きに車検証は必要なかったのだが、ヒデは車検証不携帯でツーリングすることになってしまった。恐ろしい…。
 本日の走行距離:418km(長野自動車道みどり湖PAから)

クルーズフェリー「飛龍」
4月27日(日) 天気:晴れ
 0時30分、ようやくバイクの搬入開始。さすがに眠い。九州行きとかに比較すると、圧倒的にバイクの数は少なかった。よほど物好きでなければ、わざわざ沖縄にバイクでは行かないのだろう。そして、ほとんどがネイキッドかアメリカンだ。GTEC3人のようなフルカウル・ハイパワーマシンは、沖縄で目立ちそうである。
 ちなみにクルマの数も少なかった。それもその筈、5ナンバー車で那覇まで約8万円もする!プラス乗船券が1人ずつ必要なのだ。観光であれば、現地でレンタカーを借りた方がよっぽど安い。
 そして0時50分、フェリーは大阪南港を出港した。時間も時間だけに、すぐに寝た。
 朝食、昼食は前日にATCのローソンで購入していたもので済ませた。天気がいいし波も穏やかだ。フェリーからは青空の下に室戸岬、足摺岬、都井岬、佐多岬、種子島といった、過去に走ったことのある場所が間近に見え、飽きることはなかった。屋久島もよく見えた。

フェリーから望む種子島
 今回のツーリングでは、カンちゃんとヒデはポータブルタイプのカーナビを持参していた。携帯型といってもけっこうかさばり、重量もある。走行中に見れるわけでもない。カンちゃんのはCD-ROMタイプで、もしもはぐれてしまった時に備えての持参である。備えあれば憂いなしという考えだ。カンちゃんがデッキで手に持って作動させ、今見える島はどこなのか確認していると、お年寄りのツアー客数人が物珍しそうに覗き込んでいる。快くモニターを見せて説明し、しばし旅行話に花が咲く。結果的に船上以外で使うことはなかったのであるが、持って来てよかったと思うカンちゃんであった。
 一方ヒデは買ったばかりの最新型DVDナビ。ナビゲーションとして使うよりも、船内で暇つぶしにDVDソフトを見ようと思っていた。ところが!肝心のソフトを忘れた…。ではせめてカンちゃんみたいに現在位置でも確かめるか…、と作動させるが、内蔵GPSアンテナでは電波を受信できなかった(外部アンテナはかさばるので置いてきた)。カンちゃんの物より高価で高性能なカーナビなのに、使えなけりゃ意味ないじゃん!数日後、宅急便で那覇から実家に送り返すことになるのであった。
 夕食は船内のレストラン。今日は時間がたっぷりあったので、各自のガイドブックを読み合わせ、沖縄での計画をじっくりと練った。
 本日の走行距離:0km
宿データ 宿名 有村産業「飛龍」
場所 大阪→那覇の太平洋上
感想 部屋は2等だった。このフェリーで2等はザコ寝(大部屋)がなく、寝台のみである。部屋には荷物置き場とユニットバス(シャワー、トイレ、洗面所)が装備されている。6人分の2段ベッドにはコンセントがないので、電気製品の充電等は、ユニットバス内のものを共同で利用するしかない。そのユニットバスのシャワーであるが、カーテンの丈が短くて、どんなに静かに浴びてもトイレ、洗面所側の床が水浸しになる。これは要改善ポイントである。石鹸、シャンプーもない。レストランの食事は安くておいしい。お勧めは各種定食(600円〜900円)。一番高くても山羊汁の1,200円。台湾まで行く国際船なので、救命ボートが国際航路用の規格に沿ったでかいものだった。やたら安い免税ビールの自販機は、日本を離れたら購入可能になるらしい。様々な豪華設備がウリのクルーズ船「飛龍」なのに、季節限定なのか、やる気がないのか、その多くが閉鎖されていたのは残念。
1995年就航。総トン数:16,400t。
乗船券:17,300円(2等)プラス単車:9,450円
4月28日(月) 天気:晴れ時々曇り
 7時30分、那覇に上陸。カンちゃん、ヒデにとっては初めての沖縄である。ウメはというと、実はほんの2週間前に会社の社有機で松本空港から那覇に奥さんと保養で訪れていた。その時は2泊3日で、首里城を見たり、慶良間諸島でスキューバダイビングをしたりしたのだが、あいにく天気は悪かった。バイクでは「グレートツーリング '92 in 九州 & 沖縄」以来11年ぶりだ。

沖縄上陸!
 とりあえず港近くのコンビニに寄って朝食を食べた。さっそくその土地でしか味わえないものを購入。それは、シークァーサーという柑橘類のジュースである。ここでは割とポピュラーな飲み物らしく、数社から缶、ペットボトル、パックと何種類も売られており、さっぱりした喉越しでおいしかった。
 そして3人はR58に入り、北上を開始した。嘉手納までは片側2〜3車線の広い道である。
 ここで沖縄の道路事情について触れておこう。

・マナーが悪い
長野県民はウィンカーを日本一出すのが遅いと思っていたが、ライバル出現だ。むしろその上をいくかもしれない。曲がる直前で出すのは当たり前。出さずに曲がるクルマも何台か目撃した。
多くのクルマは信号の黄色で止まらない。黄色になったからと、アクセルを踏んで急いで渡ろうともしない。沖縄の人にとって、黄色は青と同義なのである。
郊外の単車線道路では、あまり飛ばすクルマはいない。その代わりゆっくり走るクルマが多い。かと言って安全運転しているわけではないので注意が必要だ。周りなんか見ていないぞ!
バイクはもう無法地帯。すり抜けの嵐。けっこうなペースで流れていても、おかまいなしにクルマの右から左から抜き放題。見ていてハラハラする。もちろんGTECもすり抜けはするが、何と言うか、もうちょっとすり抜けの仁義ってもんがあるのではないだろうか?東京だってここまでひどくはないぞ。30km/hを守る原チャリは皆無。クルマ側も慣れているようではある。

・スクーター王国
住宅事情や気候とかも関係あるのだろうか、とにかくスクーターが多い。バイクを趣味で乗る人はあまりいない感じで、実用性が求められるようだ。スクーター以外では、ネイキッド、アメリカンが多く、フルカウルバイクはほとんどなし。

・バイクは左レーン
多車線道路では、大抵バイクは一番左のレーンを走るようにと標識が出ている。原チャリのスクーターが多いので、クルマの流れが速い時に付いていけないからか?誰も守っていないようではある。GTEC達も最初はまじめに車線を守っていたが、そのうちバカバカしくなってやめた。

・路面が滑り易い
沖縄の道路は、アスファルトに混合する骨剤が本土(砂や砂利)と違い、沖縄県産の隆起珊瑚礁石灰岩を使用している為、それがタイヤによって削れて路面をコーティングするものだから、滑り易い。何しろ、アスファルトが白っぽく見えるのだ。おかげでGTEC達のようなハイパワーマシンは不利である。アクセルをグッと開けるとホイールスピンし、シフトダウンも気を使う。慣れないうちは恐かった。コーナリングもしかり。ちなみになぜ骨剤に本土と同じく砂や砂利を使わないのかと言うと、地元で調達するのが難しく、本土から搬入するとコスト高になり、更に地元の経済への配慮もあるものと思われる。

 米軍の嘉手納基地横を走っていると、真上をF15が何機も低空で飛んでいった。離陸→旋回→着陸の訓練をしているようである。道端にバイクを停めると、しばらくその様子を眺めていた。時折金網の向こう側を走る米軍のクルマから、米兵が珍しそうに3人を見ていく。「(GTEC)フフフ、どうだぁ〜?沖縄ではこういったハイパワーなマシンは滅多に見られないだろう?」単純に怪しまれていただけかもしれない。
 そして嘉手納基地北側にあるサンパウロの丘と呼ばれる高台に移動し、基地を見渡した。どうやら射撃訓練場もあるようで、銃撃の乾いた音が鳴り響いていた。とにかくでかい基地だ。
 読谷村(よみたんそん)で県道6号線に入って少し西に走ると、右手に通称“象の檻”と呼ばれる礎部通信所が見えてきた。元は米軍の通信施設だったのだが、政府との賃貸契約が切れ、地主に土地が返還されるべき日が過ぎているにもかかわらず、政府は地主の立ち入りさえ認めていない。彼らにとって、戦争はまだ終わっていないのだ。近くに行って写真を撮る。象の檻とはよく言ったものだ。他に例える言葉が浮かばなかった。

象の檻
 次に象の檻からすぐ近くにある、世界遺産の座喜味城(ざきみじょう)跡に行った。沖縄には他に首里城跡、中城城(なかぐすくじょう)跡、勝連城(かつれんじょう)跡、今帰仁城(なきじんじょう)跡という世界遺産のグスク(城)跡があり、出来る限り廻る予定である。
 座喜味城跡は15世紀に琉球王国の豪族で名築城家として知られた、護佐丸が築いたと言われている。その後、護佐丸が中城城に移り、この城は廃城となったのだ。沖縄戦中は日本軍の高射砲基地、戦後は米軍のレーダー基地となっていたが、返還され、城壁などが再建された。城壁といっても、普段見慣れた松本城とかのものとは違う。万里の長城のように、城壁の部分だけ凸状になっているのだ。一帯は公園になっていて、遠足か社会見学だろうか、小学生や中学生で溢れ返っており、とても静かに鑑賞できる状態ではなかった。それでも、沖縄最古のアーチ型石造り門等に感動した。

座喜味城跡
 それにしても暑い!この炎天下では、もはやジャケットを着ての走行は耐えられず、腕を露出させて走り出した3人であった。
 既に12時過ぎなので、ガイドブックでおいしい店を探そうと、名護市民ビーチの駐車場にバイクを停める。すぐ目の前に砂浜が広がっており、思わず波打ち際に走り出した。青い空の下に透明度の高い海!珊瑚礁も見える。これぞ絵に描いたような沖縄のビーチじゃあないか!「(3人)泳ぎたい!!」しかし今回は泳ぐのが目的ではない。またいつか飛行機で来ればいいとして、まずは昼食だ。が、ガイドブックには、これから行く先にお勧めの飲食店は載っていなかった。適当に入ろう。

名護市民ビーチ
 更に40分ほど北に走ったところの大宜味村(おおぎみそん)にある道の駅「おおぎみ」で昼食とした。食堂で沖縄そばを注文する。店のおばさんに沖縄そばとソーキそばの違いは何かと質問すると、激しい方言の為に、残念ながら何を言っているのかよく分からなかった。聞き返すのは失礼だと思ってついつい分かったような返事をしてしまう。とにかく、具が違うようである。カツオだしのスープに小麦粉で打った太目の麺、味付け豚肉、カマボコが入っており、あっさりしていておいしかった。更にヒデは“サーターアンダーギー”なる揚げ菓子1個を50円で購入し、喰らった。これもまたうまい!小麦粉、砂糖、卵からなる生地を丸めて油で揚げたお菓子で、おやつにもってこいだ。

沖縄そば
 腹ごしらえをしたところで、引き続きR58を北上する。気付くと曇り空。風が強くなってきた。左手に見える海も、なんだか荒々しくなってきたように感じる。実際、波がけっこう高いこともあるが、北部には海水浴ができるような砂浜はほとんどなく、岩肌の海岸線が続くのだ。ここまで来ると、他にクルマはほとんど走っておらず、ハイペースで走ることができる。
 国頭村(くにがみそん)入り口付近で「カニ注意」の道路標識を発見。思わずバイクを停めてカメラに収めた。

カニ注意
 やがて、沖縄本島最北端辺戸(へど)岬近くにある金剛石林山に到着。ここはガジュマルやソテツといった亜熱帯の森の中に奇岩がそそり立つ、世界最北端の熱帯カルストだ(見学料500円)。駐車場からバスに乗って未舗装の急な山道をしばらく登り、見学コース入り口前で下車。コースの歩道は整備されており、1時間程で廻れる。亜熱帯植物の間から、巨大な石灰石が塔のようにそそり立つ様は圧巻である。木の陰から恐竜が顔を出しそうな雰囲気だ。帰りのバスを待つ間、ここの従業員の人に、ソーキそばのソーキとは、豚のアバラ肉だと教えてもらった。

金剛石林山
 金剛石林山を後にすると、バイクでほんの2〜3分走って辺戸岬に行った。岬先端に立つ「祖国復帰闘争の碑」からうっすらと与論島が見える。垂直に高くそびえる岩肌に、波が打ち寄せる岬東側の眺めは特に素晴らしい。高所恐怖症の人は足がすくむであろう。少しその気のあるカンちゃんは、決して崖に近付こうとはしなかった。と、その方向の山の中腹に、何やら巨大な鳥が!? さっそく行ってみることにした。

辺戸岬からの眺め
 舗装はしてあるが、クルマの擦れ違いもまともにできないような細い道を走って、その場所に着いた。鳥の正体は、巨大なヤンバルクイナの形をした展望台であった。中の階段を登ると展望室に出るのだが、デザイン優先の構造からか、視野が狭く、よく外が見えない。先程の金剛石林山からも辺戸岬が一望でき、それに比べればどうってことはなかった。

ヤンバルクイナ展望台
 この時点で既に16時過ぎ。これは高速を使わなければ明るいうちに宿がある那覇までは戻れないだろう。このままR58を終点まで進み、引き続き県道70号線を海沿いに走り、宜野座村(ぎのざそん)ICから沖縄自動車道に乗ることにした。風が冷たく、太陽も雲に隠れているので、ジャケットを着て出発。
 県道70号線は適度なアップダウンがあるワインディングで、なかなか楽しかった。しかしアスファルトが滑り易いという不安があったので、コーナリングは慎重になってしまう。それでも攻めに(?)来ている地元ナンバーのバイク達なんか相手にもならず、さっさと道を譲っていただいた。クルマもそうであるが、多くの沖縄県民はこういった道は走り慣れていないようである。なお、「カニ注意」に引き続き、「カメ注意」の道路標識もあった。
 途中、給油やコンビニで休憩したりして、18時にようやく宜野座村ICで高速に入った。入り口の自動発券機では、「通行券をお取りください。」というお馴染みの声に引き続き、“Please take a ticket.”という英語のアナウンスが…。道路標識も全て英語と併記されており、沖縄っぽかった。
 ガイドブックに伊芸SAからの眺めがいいと書いてあったので、寄った。展望台からは勝連町から点々と続く浜比嘉島、平安座島、宮城島、伊計島が一望できる。これらの島々は全て橋で繋がっているのだ。平安座島にある石油コンビナートの煙突から炎が上がっているのが、備え付けの望遠鏡(無料!)から見えた。な〜んてのんびりしていると、19時近くになってようやく太陽が沈み、一気に暗くなり始めた。先を急ぐ。

伊芸SA
 さすがは高速。那覇ICまではあっという間で、IC出口で県道82号線に左折し、少し走ってR329の那覇東バイパスに入り、突き当たりを左折してすぐ、ICから15分くらいで今日から3連泊する沖縄国際ユースホステルに到着。19時20分であった。
 チェックインを済ませて風呂に入った後、夜の国際通りに繰り出し、百甕(ももがーみ)という居酒屋で「ラフテー」(豚の三枚肉を長時間泡盛で煮込んで油を落とし、味噌または醤油で煮込んだ料理)「ヒラヤチー」(沖縄風お好み焼き)「ゴーヤチャンプルー」(ゴーヤと豆腐、豚肉等を炒め、最後に溶き卵を絡める)等の定番地元料理に舌鼓を打ち、泡盛でベロベロに酔っ払った。沖縄で豚は「泣き声まで食べる」と言われるほどあらゆる部位が食材として使われ、そのどれもが臭みもなく、あっさりしていて食べ易い。
 腕が日焼けでヒリヒリする。
 本日の走行距離:303km
宿データ 宿名 沖縄国際ユースホステル
場所 沖縄県那覇市奥武山51
感想 奥武山公園の隣りにあり、国際通りまで歩いて15分くらい。1996年に新築された。今回泊まった部屋は、バストイレ共同(洗面所あり)の3人用ゲストルーム。もう500円出せばバストイレ付きの部屋になる。テレビ、冷房完備で快適。ベッドメーキングまでもしてくれる(こんなユースホステルはかつてなかった)。電子カードキーで門限なし。このユースホステルは平日に修学旅行や合宿で利用されることが多いらしく、ゴールデンウィークにもかかわらず、観光客はあまり宿泊していなかった。よって、大浴場は3日間ともGTECで貸し切り状態。
1泊:3,650円(朝食のみ提供600円)
4月29日(火) 天気:晴れ
 8時30分出発。まずは首里城に向かう。8時55分から奉神門で御開門(うけーじょ)と呼ばれる開門の儀式を毎日行っているらしいので、ぜひ見たかった。昨晩、高速を降りてからの逆コースを那覇IC前まで走ると、首里城はすぐ近くである。守礼門近くの広い歩道にバイクを停めようとしたら、警備員にやめとくれと言われたので、仕方なく、少し離れた有料駐車場に移動した。クルマ1台500円の民営駐車場で、バイクなので1台300円にまけてくれた。クルマ1台分のスペースに停めたのだから、3台で500円にしろ!と心の中で思いつつ時計に目をやると、8時55分まであと5分。開門の儀に間に合うか微妙になってきた。とにかくやるだけのことはやろうと、3人はカネを払って走った。いい天気である。既に暑い。奉神門にたどり着いた時には、3人とも汗びっしょりになっていた。朝っぱらからこれか。だがおかげで何とか間に合ったようだ。
 奉神門前には、琉球王朝時代の役人の扮装をした人が3人立っていた。そして9時きっかりに鐘をたたき、何やらひとこと発して開門を宣言すると、後ろの門がスルスルと開いた。え?これで終わり!? 終わりであった!

御開門
 入場料800円を払って奉神門に入ると、目の前に首里城正殿が姿を現した。これは1992年に再建されたもので、「グレートツーリング '92 in 九州 & 沖縄」では、まだ再建中で見ることができなかったものだ。首里城は何度も消失しており、忠実に再建された正殿のモデルは、1712年当時のものである(沖縄戦で消失)。中国の建築様式が取り入れられており、大和人(やまとぅんちゅ)であるGTEC達の城の常識とはかけ離れた、実に美しい建物だ。それでいて、権力の象徴である、33体のみごとな龍の装飾や像により、しっかりと威厳もある。ここは国王が生活していた場所でもあり、内部を見学できる。再建の過程については北殿内にある映像コーナーを見ていただきたい。見ごたえがあっておもしろいぞ!

首里城正殿
 正殿まで走って来たので、通り過ぎた数々の門や、世界遺産である王朝時代の重要な拝所の園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)も後で見た。首里城はメジャーな観光地だけあって、観光客でごったがえしており、琉球王朝に想いを馳せながらゆっくりと見る気分にはなれなかった。
 駐車場までの途中に世界遺産である玉陵(たまうどぅん)があり、ここも見学した(200円)。首里城の隣りで、しかも世界遺産なのに観光客はほとんどいなかった。
 玉陵は琉球国王代々の陵墓で、斜面からせり出した3つの巨大な石室がある。左から国王夫妻の墓、中央が遺体を風葬にしていた部屋、右端がその他王族の墓だそうだ。弔い方法は、まず遺体を中央の石室で風葬(要はただ置いておくだけ)にし、7年が経過したら、遺体から肉を削ぎ落として骨だけにして、墓に納めるのである。しかしその7年以内に次の遺体が来ると、例え1年でも骨だけにしなくてはならず、そりゃもう凄い匂いであったに違いない。その役目には神に仕える専門の人がいたというから驚きである。
 ここは太平洋戦争中、旧日本軍の施設として利用された為、左右の石室は米軍によって破壊され、中央の石室のみが残ったらしい。1974年に修復された。到る所にコンクリートで穴をふさいだ修復痕が見られ、それらのほとんどが、沖縄戦による銃撃の痕と思われる。

玉陵
 11時にバイクまで戻り、南風原町(はえばるちょう)に向かって出発した。県道241号線を南に少し走ると、R329との交差点に達した。この交差点は「兼城十字路」と呼ばれ、沖縄戦で中部から上陸し、南下してきた米軍から逃れようと、南部へ避難して来た軍人や民間人が、この十字路で米軍の艦砲射撃を受けて死体の山が築かれたらしい。3人はその事実を知識として知ってはいても、復興した今となっては、そんなことがあったとはとても想像できなかった。というわけで、今日は沖縄戦をよく知り、そして戦争の悲惨さ、愚かさを肌で感じようというテーマがあった。何しろ沖縄は日本における唯一の県民を総動員した地上戦があり、軍民合わせて20万人以上も亡くなったのだ。しかも民間人の死者は軍人をはるかに上回っている。
 まずは南風原町役場向かい側にひっそりと建つ、南風原文化センター(見学無料)に到着。ここは近くの旧南風原陸軍病院壕から出土した遺留品や、壕の中を再現した展示がある。特に2階には、壕跡から収集された物がろくに整理もされず雑然と置かれており、生々しい。ガイドブックになど載っていない資料館で、他にほとんど見学者はいなかった。

南風原文化センター
 引き続き、バイクで2〜3分走った所にある20号壕を見た。この壕は旧南風原陸軍病院壕の一部なのだ。とは言っても危険なので、内部を見ることはできない。入り口だけである。それほど大きくない山の斜面に掘られた数々の壕は内部で繋がっており、ランプやロウソクの薄暗い灯りの中、麻酔なしで手術が行われていたという。その惨状たるや、記録文だけ読んでいても吐き気がするほどである。軍の撤退に伴い、重傷者約2,000名が青酸カリや手榴弾で自決させられたらしい。

20号壕入り口
 そして兼城十字路まで戻ってR329→R331と東に進む。12時を過ぎているので、そろそろ昼食にしようと飲食店を探すが、なかなか見つからない。そうこうしているうちに、次の目的地である斎場御嶽(せーふぁうたき)に着いてしまった。仕方なく、入り口付近にあるローソンで昼食にした。このローソン、ありがたいことに、冷房の効いた店内には椅子があり、飲食できた。外は暑くてたまらん!
 斎場御嶽は沖縄一の聖地と言われている。琉球王国時代、最高女神官である聞得大君(きこえのおおきみ)の就任式「おあらおり」が行われた場所で、国王自らも参拝したそうだ。昔は位の高い女性神官や国王しか入ることができなかったそうだが、今じゃバイク野郎も入ることができる。いくつかの礼拝所があり、中でも目玉は三庫理(さんぐーい)で、元は巨大な一枚岩だったものが、きれいに割れて、三角形の隙間を形成している。今でも信仰の対象らしく、シートを敷いて正座し、お祈りをしている人がいた。
 ここにも砲弾の爆発によってできた池や、高射砲が設置されていた跡(現在はコンクリートの台座のみ)など、戦争の傷跡がある。

斎場御嶽
 次は玉城村(たまぐすくそん)にあるアブチラガマ。沖縄では鍾乳洞を「ガマ」と呼ぶ。戦時中、ガマはよく壕として利用されたので、ガマ=壕でもある。斎場御嶽から県道86号線を西に走り、ほどなく玉城村南部観光総合センターに到着。
 アブチラガマは全長約270mの洞窟を利用した自然壕で、そのほぼ全域が公開されている。管理はされているが、照明はない。戦争当時そのままの雰囲気を体験してもらおうという趣旨らしい。まずは南部観光総合案内センターに行って届け出と懐中電灯を1本100円で借りる。が、カンちゃんとヒデは自宅から持ってきていた。何て準備がいいんだ。というわけで、ウメだけ懐中電灯を借り、歩いてすぐの場所にある、壕入り口の階段を降りる。
 ここは沖縄戦の時に、先程の南風原陸軍病院から軍医や看護婦、衛生兵、ひめゆり学徒隊が移動し、負傷兵の治療、看護に当たっていた。多い時には1,000人近い患者が収容されたそうだ。戦闘が激しくなってくると、近隣の住民もこの壕に避難してきた。撤退命令が出されて病院が移動した時、残された患者には自決用の青酸カリが渡されたという。その後も、洞内は避難民と監視兵、負傷兵などが同居し、米軍による攻撃で阿鼻叫喚の地獄絵図となった。終戦後も、一部の日本兵や住民は9月中旬まで壕内に暮らしていたらしい。
 内部は涼しく、真っ暗だ。天井も低く、灯りがなければ頭に怪我をする。そもそも灯りなしにはとても先に進めない。さすがに遺留品はほとんど片付けられているが、「死体安置所」の看板が懐中電灯に照らし出されると、背筋がゾッとして、思わず後ずさりした。こんな所に何ヶ月もいれば、気が狂ってしまうに違いない。ちなみに壕内には安全の為に非常用スイッチがあり、それを押すと発電機が動いて照明が点くようになっている。

アブチラガマ入り口
 アブチラガマを後にし、R331を20分ほど走り、次の目的地である平和祈念公園に到着。平和祈念公園はガイドブックにも大きく載っているメジャーな場所だ。広い公園は、家族連れで賑わっていた。お目当ては平和祈念資料館(300円)である。しかしヒデは、この暑さでいくぶんばてており、ホールにあるベンチで昼寝と洒落込んだ。資料館に入っていった2人は、どうせすぐに出てくるだろうと踏んだのだ。
 内部はいくつかのテーマゾーンに分かれていて、最初は沖縄戦に至るまでの沖縄の歴史から、沖縄戦の詳細な内容を、豊富な展示資料と映像で紹介している。これだけでも相当のボリュームがある。そして、戦場で体験した住民の証言集は凄まじい。自ら体験した忌まわしい記憶を後世に伝えようと語り継がれる証言の数々は、歴史の真実そのものであり、どんな物的資料も遠く及ばない。ウメとカンちゃんはその場から動けなくなった。とても通り過ぎることなんてできなかったのだ。ヒデが待っていることなんて、すっかり頭から消えていた。すると通り掛かりのカップルの彼女が、「沖縄ってアメリカと戦争してたの〜?うっそぉ〜!?」と言っていた。これが若い世代の現実なのか?あまりにも悲し過ぎるではないか。こういった輩にこそ、じっくりと見ていって欲しい…って、ずんずん行ってしまわれた。こんなんだからイラク戦争を容認してしまうのだ日本は!
 2人が出てきた時、ヒデはもはや寝るのも苦痛になっており、不満の表情をあらわにしていた。教訓「資料館の規模、展示内容を事前にある程度把握しておくべし。」「その場に居るのであれば、嫌でも一緒に行動すべし。」

平和祈念資料館
 資料館の外には、平和の礎(いしじ)があった。沖縄戦終結50年の1995年に落成したズラッと並んだ石版で、そこには国籍、軍人、民間人を問わず、沖縄戦で亡くなった全ての人々の氏名が刻まれている。長野県出身者も数多く刻まれていた。
 時計を見ると、もう17時近いではないか。ここでは時間を掛け過ぎたので、ヒデに謝りつつ、出発した。
 お次はすぐ近くの米須海岸に位置する魂魄の塔である。この地には沖縄戦後に収容所が建てられていた。収容されていた真和志村(現在の那覇市内)の住民が、周囲に散乱していた35,000体もの遺骨を収集し、米軍よりセメントを譲り受け、1946年2月27日に塔を建立したのだ。沖縄住民自身が造った塔としての意義は大きい。ガイドブックに載っている割には、他に誰も人はいなかった。周りには沖縄戦で亡くなった軍人の出身県によるモニュメントが乱立しており、どうも派手さを競っているようで、閉口した。

魂魄の塔
 そして17時過ぎに、本日最後の目的地、ひめゆりの塔へ。魂魄の塔からはほんの数分である。ここは沖縄師範学校女子部と第一高等女学校の生徒で構成された「ひめゆり学徒隊」終焉の地である。当初222名いた学徒隊と18人の教師のうち、最終的に136名が銃弾に倒れ、又は崖から飛び降りるなどして自決したのだ。ひめゆり部隊のひめゆりとは、植物の花のひめゆりと思っていた3人であるが、花とは関係なく、沖縄県立第一高等女学校の校友会誌「乙姫」と、沖縄県女子師範学校の校友会誌「白百合」を合わせて「姫百合」としたところからきているらしい。ひめゆりの塔の横にある洞穴は旧日本陸軍第3外科壕跡で、軍の解散命令を受け、ひめゆり学徒隊が集合している所に米軍のガス弾が直撃し、40名の命が失われた。柵があるので、入り口しか見ることはできない。ここにある資料館は17時で既に閉館していた為、残念ながら見学することはできなかった…。

ひめゆりの塔
 さて、バイクは隣りの土産物屋の駐車場に停めたのだが、さすがにそのまま帰るのは気が引けたので、閉店時間間際の店内を見て廻った。ヒデは絞りたてのパイナップルジュースと、定番である「海人(うみんちゅ)」のTシャツを購入した。すると、3人の真っ赤に日焼けした痛々しい腕を見かねて、店員のおばさんがアロエを取ってきて塗ってくれた。アロエの汁が日焼けにはいいらしい。確かにす〜っとして気持ちがいい。そして宿でも塗りなさいと、アロエをたくさん袋に入れてくれた。更にサーターアンダーギーをタダでくれた(これは今日の売れ残りだろうけど)。他の店員も集まってきて、旅の話で盛り上がった。みんないい人達だ。
 18時、店員に見送られながら出発。後は那覇に向かうのみ。「(ウメ、カンちゃん)オレ達何も買っていないのに、申し訳ない!」
 R331を順調に北上し、宿には18時30分に到着した。沖縄の道もだいぶ走り慣れてきた。
 夜は再び国際通りに繰り出し、土産を購入して宅急便で各自宅に送った後、「うみないび」という郷土料理店と泡盛の店で夕食にした。オリオンビールで乾杯し、色んな種類の泡盛を楽しみながら、今日いくつか戦跡を廻ったが、何で人間は戦争をするのかという、非常に難しい問題について議論した。特にヒデは、ウメがミリタリー好きで、アクションや戦争映画のソフトをたくさん持っているくせに、背中に「全ての武器を楽器に」と大きく印刷された喜納昌吉デザインのTシャツを着、戦争はいかんと言うのは矛盾していて納得できないらしい。ウメは語った。「オレは昨日F15を見て、かっこいいと思った自分を否定はしないよ。しかし実際に戦争はしてはならないと思う。そこがヒデの分からないところなわけだ。では、仮に刃物も含めた武器を一切映像や印刷物で扱ってはいけないと法律で決めたらどうなると思う?映画やドラマ、アニメ、演劇、マンガ、ゲーム、小説等で武器が一切出てこなくなると、娯楽は成り立たなくなるんじゃないかな?きっと人間とは本質的に争いが好きな生き物なんだよ。それを理性で抑えている。しかし、映像は痛みを伴わないし、ゲームは死んだらリセットすればいいし、困ったもんだろ?そのうち現実と空想の区別がつかなくなり、実際に人を殺してみようかなんて奴も現れる。あ、ビールおかわりね。つまり、恐いのは、戦争を体験した世代の記憶や教訓が薄れつつあることだ。その為には、戦争がいかに愚かで悲惨な結果をもたらすのかを、少しでも理解しなくてはならない。だから今日みたいな場所は、積極的に廻らなくてはダメなんだよ。負の遺産に目を背けてはダメだ。現実と空想の区別をしっかりと認識し、その上で、空想の世界を楽しめばいいんじゃないかなぁ?なあカンちゃん。」カンちゃんも同意見だった。っていうか、何言っても「うん!」「うん!」を繰り返している…。ヒデも目がうつろになってきた。やばい、これ以上飲んでは、明日走れなくなる。というわけで、大いに盛り上がったところでお開きになった。
 本日の走行距離:81km
宿データ 宿名 沖縄国際ユースホステル
場所 沖縄県那覇市奥武山51
感想 4月28日のデータを参照のこと。
4月30日(水) 天気:曇り
 今日の天気予報は、曇り時々雨。午後は回復に向かうらしい。雨の中、カッパを着て走りたくない3人は、連泊なのだからレンタカーを借りるか協議した。外はまだ太陽が出ている。そこで、まずはバイクですぐ近くにある旧海軍司令部壕を見に行き、その後で再検討することにした。ウメは寝不足で目が赤い(詳しくはエピソード「エアフィルターのおかげでアゲイン」を参照のこと)。

沖縄国際ユースホステル
 8時30分出発。旧海軍司令部壕には、10分もかからずに着いた。壕のある公園周辺は、実によく整備されているのだが、標識に従って行く過程では、クルマの擦れ違いも困難な住宅街の道を通ることになる。ま、バイクだからいいけど。ここは旧日本海軍の、沖縄戦最後の司令部があった所だ。当時の司令官は大田少将で、最後の1人になっても戦えという上層部の命令を無視し、沖縄県民に対する感謝と配慮を表した最期の電文を打ち、この壕内で自決したのである。
 420円を支払って資料館に入る。資料館の展示物は、沖縄の歴史と沖縄戦の内容を主にパネルで説明したものであるが、昨日の平和祈念資料館にはボリューム的に遠く及ばない。よって軽く流して壕内に入る。コンクリートでしっかりできた長いトンネルの階段を降りる。内部は今まで見てきたガマと違い、計画的に造られた地下施設といった感じで、清潔感がある。しかし、この中も負傷者でごったがえし、兵士達の部屋は完全にキャパシティオーバーであり、立ったまま仮眠をとったそうだ。壕内は当時のまま保存されており、大田司令官が手榴弾自決した時の破片による痕が今も残っていて生々しい。

旧海軍司令部壕
 外に出ると9時30分。次の目的地の沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館がある方向は、どんより黒い雲に覆われている。那覇上空も既にやばい雰囲気である。一旦宿に戻ろう。

どんよりとした那覇上空
 宿に向かう途中、国際通りにある沖縄ツーリストに寄り、水族館の入場チケットを購入した。普通、一般は1,800円なのだが、ここでは団体券(1,440円)をバラで購入できるのだ。っとポツポツ顔に水滴が…。いつ本格的に降り出してもおかしくない空模様である。
 宿で3人は再協議した。そして、この3人でのツーリングは初めてであることに着目した。今までGTECの中で“雨男”と言われた人間が誰も含まれていないではないか!?というわけで(???)、バイクで行くことに決定した!
 10時過ぎにユースホステルを出発し、R58をひたすら北上する。おととい立ち寄った名護市民海岸の駐車場で休憩し、昼食の店を探す為、ガイドブックを開く。今日は名護でR449に入って西に進むので、その先にいくつか店が載っていた。「(ウメ)どんなものが食いたい?」「(カンちゃん、ヒデ)沖縄そば。」「(ウメ)よほど気に入ったようだねぇ。」と、本部町(もとぶちょう)にある手打ちそばがウリの「きしもと食堂」に決めた。
 名護市でR449に入ると、路肩が濡れていた。少し前まで雨が降っていたようである。いよいよ覚悟を決めるか。このエリアは土砂の採掘がさかんに行われており、大型トラックがさかんに走り回っている。おかげでアスファルトの上は土砂で汚れ放題。これで再び雨が降り出したら…、最悪だ〜っ!
 13時、本部大橋を渡って右折し、少し県道85号線に入った所にあるきしもと食堂に到着。県道沿いではなく、細い路地に面している古い小さな店だ。見ると行列ができている!ガイドブックによると、創業約100年の老舗中の老舗であり、昼時は観光客やファンの行列ができ、食べるのに一苦労するのだそうだ。メニューは大600円、小450円のそば二品のみ。迷わず大を注文。麺は木灰汁の上水で練られた手打ちで腰があり、スープはシンプルなカツオだしで、最後の一滴まで飲み干せる飽きのこない味。トッピングは甘口の三枚肉とかまぼこで非常にオーソドックス…という評判通り、実にうまかった。しかも何かの企画による全国ラーメンランキングで第3位になっているそうじゃないか!ラーメンっていう感じではなく、明らかに沖縄そばなのだが、とにかくそんなに有名な店だったとは…。ガイドブックを見てよかった。

きしもと食堂
 おいしいものを食べてすっかり雨のことを忘れていた3人であるが、幸い沖縄美ら海水族館まで降られることはなかった。
 海洋博公園にあるこの水族館、広い駐車場は満車で、駐車待ちのクルマがズラッと列を作っていた。それらのクルマを横目に見ながら、二輪用駐車場にバイクを停めた。びっしり停まっている駐車場のクルマは、約9割以上が「わ」ナンバーのレンタカーだ。沖縄のレンタカー大集合!
 昨年できたばかりのこの水族館に入ると、まずは実際に海の生き物を手に取ることができるコーナーがあった。しかし、うっかりウツボに手をかじられると大変なことに!なんてことはなく、もちろん危険な生き物はいない。ヒトデをひっくり返してどうやって起き上がるのか見たりできて、おもしろかった。先に進むと珊瑚礁のある水槽内で泳ぐ色取り取りの魚達を鑑賞できる。スキューバダイビングで沖縄の海に潜れば、実際にこれらの魚達に会えるのだ。最大の目玉は7,500トンという世界最大級の水槽「黒潮の海」である。巨大なジンベエザメやマンタの泳ぐ姿を巨大なアクリルガラス越しに見ることができる。また、この水槽を下側から見学できるコーナーもあり、まるで自分が海の底に立っているかのような錯覚を覚える。駐車場の混み具合通り、内部は観光客で一杯であった。水槽前はベルトコンベアー式に歩かざるを得ず、とてもゆっくり眺めることなどできなかった。

沖縄美ら海水族館
 外に出ると雨は降っていない。これは宿までもつかも?空はまだどんよりしている。公園でグアバやシークァーサーの缶ジュースを飲みながら海越しに見える伊江島を眺め、次の目的地、今帰仁城跡に向かった。
 世界遺産の今帰仁城跡は水族館からほんの7〜8kmくらい、今帰仁村(なきじんそん)の山の中腹にある。入り口にはコンクリート製の鳥居があり、近々取り壊される予定らしい。張り紙を見ると、この鳥居は今帰仁城とは全く関係がないと書かれていた。実はかつて明治政府の強制的な日本化政策により、沖縄には到る所に無理矢理鳥居が建てられたそうである。おそらくこれもその中のひとつなのであろう。今帰仁城は北山城とも言われ、13世紀頃、英祖王系の今帰仁按司によって築かれたと言われているが、不明な点が多い。古生期石灰岩だけを使って築かれた沖縄唯一の城だそうで、長い年月をかけて、段階的に規模を大きくしていったようだ。地形をたくみに利用した城壁は、座喜味城よりもはるかに実戦的だ。

今帰仁城跡
 ここで大阪からのフェリーで同室だった50歳過ぎのソロライダーに再会した。彼はこのエリアを拠点に辺戸岬を見て来たところで、北部は雨だったそうだ。時刻は既に16時30分。一般道では、明るいうちに宿まで戻るのは厳しそう(というより疲れるから)なので、高速を使うことにした。
 本部半島をR505で時計回りに走り、R58に入って南下し、許田ICから高速に乗った。あとはおととい(28日)と同じく、伊芸SAで休憩して、18時20分に宿に戻った。いや、ヒデだけは宿の少し手前で突然いなくなり、少し遅れて到着した。珍しい名前の湖の標識を見付けたので、写真に撮って来たのだそうだ。その名も“漫湖”(ま○こ)。ローマ字でしっかりフリ仮名が付けられていた。この湖(実際は国場川の川幅が広くなった部分)の近くには漫湖公園というものもあり、1999年にラムサール条約に登録されている。マングローブ林の広がる干潟には、野鳥やカニ、小動物を観察できるメジャーな所なのであった。
 ツーリングが始まって以来毎日酒を飲んでいるので、今日は休肝日にしようと話し合った。夕食は宿のすぐ近くにあるケンタッキーフライドチキンが無性に食べたいというカンちゃんだけ別行動とし、ウメとヒデはまたまた国際通りに繰り出した。
 国際通りは戦後の焼け野原から奇跡的に復興したことで「奇跡の1マイル」と呼ばれており、様々な店(土産店がほとんどだが)が軒を連ねている。人もクルマも深夜まで途切れることがない、沖縄のメインストリートなのだ。国際通りの途中からアーケード商店街に2人は入った。ここは市場(まちわぐゎー)と呼ばれ、暮らしに必要な肉、野菜、魚、雑貨、衣料品等の店がびっしり並んでいて、活気がある。ウメはTシャツ屋で「島人(しまんちゅ)」のTシャツを購入し、ヒデはブルーシールアイスクリーム店のおねえさんがモロタイプだったので、思わずマンゴージュースを注文し、歩きながら飲んだ。こういった所をぶらぶら歩くのはいいものだ。そりゃそうと、いいかげん腹が減った。夕食は何にしようかと悩んでいたら、国際通り沿いに鉄板焼きステーキの店「MAUI」を発見。ここにしよう。
 注文したのは2,750円のステーキコース。300gだ。そして、店内に漂う肉の焼ける匂いを嗅いでしまった以上、頼まないわけにはいかないでしょう、生ビール。休肝日なんてクソ喰らえ!オリオンビールのジョッキを注文した。前菜のひとつに珍しいマンゴーのキムチが出てきて、これがなかなかいけた。そして目の前の鉄板でシェフが繰り広げる華麗なる技巧の数々。味と関係あるのかはともかく、もはや芸術である。肉が焼き上がり、口に入れる。うまい!ところが、肝心の肉が出てきたのは最後で、それまでのサラダやスープ、様々な野菜炒めという遠い道のりのおかげで、既に腹が膨れていた。何とか全部平らげたのだが、220gにしておけばよかった…。肉を先に出してくれ。
 23時、2人が宿に戻ると、カンちゃんは既に寝ていた。今日は涼しくて過ごしやすい1日であった。しかも、ついに雨に降られなかったのである。
 本日の走行距離:209km
宿データ 宿名 沖縄国際ユースホステル
場所 沖縄県那覇市奥武山51
感想 4月28日のデータを参照のこと。
5月1日(木) 天気:晴れ時々曇り一時雨
 6時30分、宿を出発。8時出港の鹿児島行きフェリー(マリックスライン)に乗る為、大阪から来た時に上陸した所のフェリーターミナルに向かう。曇り空である。
 ターミナルには10分とかからずに到着した。しかし、建物内にはほとんど人がいない。おかしい。マリックスラインの窓口もないじゃないか!?キョロキョロ見回していると、通りかかったおじさんが察して、「マリックスラインなら那覇港の方だよ。」と教えてくれた。何と!那覇には那覇港と那覇新港があり、ここは新港の方で、鹿児島行きフェリーはさっき通り過ぎてきた、というよりも宿から歩いて行けるくらい近い所にある那覇港から出るのだ!ガイドブックの地図を見ると、確かにそう書いてある!思い込みとは恐ろしいものだ。急いで引き返す。
 那覇港のフェリーターミナルに着くと、ちょうど窓口が開き始める頃だった。無事乗船手続き終了(今回のフェリーは全て予約済み)。ゆとりを持って出発してよかった。
 バイクを停めた場所の付近に2頭の人なつっこい野良犬がいて、しっぽを振りながらペットボトルをくわえて3人に近寄って来た。遊んで欲しいようだ。ウメが頭をなででやろうと思ってよく見ると、皮膚病で毛が所々抜けて、なんとも汚らしく、思わず出した手を引っ込めた。「(ウメ)この犬畜生め、オレに近寄るんじゃねぇ!」とカンちゃんを見ると、同じく汚らしいもう1頭と戯れている。「(ウメ、ヒデ)やるな、カンちゃん。」2人は愛を持って接することの大切さを学んだ…。

クイーンコーラル8
 そして8時、フェリーは那覇港を出港した。さらば沖縄!沖縄本島は狭いようでいて広い。結局、予定していた世界遺産の城跡も全て廻ることはできなかった。
 このフェリーはこの先、鹿児島までの間にいくつかの港を経由する。まずは昨日昼食に寄った「きしもと食堂」近くの本部港。今度こそ、さらば沖縄!

さらば沖縄!(本部港)
 次に沖縄初日に辺戸岬からうっすらと見えた与論島(与論港)。もうここは鹿児島県だ。更に沖永良部島(和泊港)、徳之島(亀徳港)、奄美大島(名瀬港)と次々に立ち寄り、その度に人の乗り降り、貨物の積み出し、搬入がある。この航路は地域の生活と密接に結びついている。天気は悪化傾向にあり、徳之島で雨が降ってきた。波は荒くない。
 夕食後、ウメが開放されたレストランのテーブルで鹿児島の計画を練っていると、隣りに50歳過ぎくらいの2人組の男性が座った。そしてウメの日焼けして、グローブの跡がくっきりと付いた腕を見るなり、一方が「バイク?」と話し掛けてきた。この日焼けの跡でライダーと見抜けるのは、バイク乗りのみである。そうでなければ職人焼けと思うことだろう。やはりこの男性、Wさんは、55歳にしてゼファー750(平成6年式)を持っているそうだ。2人は今回仕事で奄美大島に行った帰りで、鹿児島の福祉施設で働いているという。そして沖縄でのことや、これから走る鹿児島のお勧めポイントなどで盛り上がった。そのうちカンちゃんとヒデもやって来て、名刺交換もした。するとWさんが「どう?明日家に泊まりに来ない?」と言い出した。明日の宿泊先は鹿児島のユースホステルを予約している。家族もいるようなので、迷惑なのではと最初遠慮していたが、問題ないからぜひにと言うので「(3人)では、宜しくお願いします。」ということになった。しかしWさん、酒がかなり入っており、自分がどこの船室に泊まっているか覚えておられない様子。大体、携帯電話は現在圏外なので、家族の了承も取っていないのだ。だんだん不安になってきた3人であった。ちなみに連れの男性(実はWさんの上司で局長さん)も酒に酔っていて、下ネタを連発していた。
 本日の走行距離:12km
宿データ 宿名 マリックスライン「クイーンコーラル8」
場所 那覇→鹿児島の太平洋上
感想 2等寝台は2段ベッドの8人部屋。ベッドにシーツはなく、何と茣蓙(ござ)が敷かれている。手抜きもいいところだ。毛布も何となく臭い。ベッドにコンセントなし。レストラン(食堂と言った方が合っている)の食事は可もなく不可もなく、値段相応ではある。営業時間以外はフリースペースとして席を開放する。閉口するのは汚らしいシャワールーム(浴場なし)。パーテションで仕切られた脱衣所にも靴を履いたまま入り、服を置く場所がほとんどない。石鹸、シャンプーなし。カーテンはカビの跡だらけ。船尾には「展望室」と書かれた部屋があるが、2等室として使われていた。臨時的にそうしているようではないみたいだ。だったら「2等室」と表示してくれ。この船で快適な船旅を期待してはいけない。あくまで地域住民の足なのだ。この船が優れているのは、速力が速いことだ。貨物の積み下ろしで出航時間が遅れても、スピードでカバーしてしまい、定刻で運航できる。
1999年就航。総トン数:4,900t。
乗船券:19,200円(2等寝台)プラス単車:6,300円
5月2日(金) 天気:晴れ
 朝、出発の準備をしてデッキに出ると、右手に大隈半島佐多岬、左手に薩摩半島長崎鼻と開聞岳がきれいに見えた。いい天気だ。
 船内の通路でウロウロしているWさんと行き会ったので、念の為、昨日の約束を確認した。「(Wさん)え?あ?あ〜あ、うん、大丈夫大丈夫。それより、部屋どこだっけ?」本当に大丈夫なのか!? Wさんの家は鹿児島市の南に位置する下福元町にあり、今日はこれから仕事なので、17時30分に交通安全教育センターで待ち合わせることにして別れた。
 8時、鹿児島港に入港。ウメはさっそく携帯電話でユースホステルにキャンセルを入れる。カンちゃんとヒデが不安そうな表情でウメを見ている。「(カンちゃん、ヒデ)本当にキャンセルして大丈夫なのだろうか…。Wさん、まだ酒が残っているみたいだったが…。」ユースホステルのオーナーには、本当のことを言うと気分を害されると思い、ウメは「今宮崎なんですけど、仲間の1人が体調を崩して寝込んでしまい、とてもバイクで移動できる状態ではないんですよ…(以下略)。」とうまくごまかした…つもりが、「(オーナー)そんなにひどい状態なんですか?熱は高いんですか?咳は?痰は?」と心配そうに聞いてきた。ひょっとして今海外で猛威を振るっている新型肺炎SARS(サーズ)を疑っているのか?「(ウメ)い、いえ、熱はないんですが、吐き気がひどくて…、食べ物に当たったかなぁ…なんて。」「(オーナー)でしたらそのお友達はそこでもう1泊なさって、あとのお2人だけでも、何とか来れませんかねぇ。」これは手強い相手だ!ウメは仕方なく切り札を使った。「(ウメ)実は寝込んでいるのは私の妻なのですよ。まさか彼女1人を放っておけるわけがありませんし。」「(オーナー)あれ?男性3名と聞いていましたが?」「(ウメ)う、ぶふぉ!そ、そうでしたっけ?」まずい、墓穴を掘ってしまった!「(ウメ)も、もちろんキャンセル料はお支払いしますので…。」とまあ何とか言い包めてキャンセルに成功した。オーナーは実に丁寧なお人で、キャンセル料の振込み方法を実に念入りに繰り返しご指導くださった。その間カンちゃんとヒデは、何でキャンセルするのにそんなに時間が掛かるのだぁ!?といいかげん待ちくたびれていた。人間、正直が一番である。
 鹿児島ICから指宿スカイラインに入り、南下する。ウメとカンちゃんは、「グレートツーリング '01 in 九州」でこのまま終点まで走り、池田湖や開聞岳、長崎鼻を見てからフェリーで大隈半島に渡った。今回は知覧ICで降りる予定だ。
 指宿スカイラインに入るなり、ウメとヒデは水を得た魚のように、タイヤの端まで使って攻めた。九州南部に位置し、高速コーナーの連続するこの有料道路は、冬季に凍結防止の為撒いた砂が残っているということもなく、安心して倒し込むことができる。ハイペースで走ったので、休憩ポイントの樋高展望台まではあっという間であった。しばらくすると、安全運転に徹したカンちゃんもやって来た。樋高展望台からは錦江湾に浮かぶ桜島がよく見える筈なのだが、残念ながら霞んでいた。
 知覧ICで県道23号線に入り、約10kmで知覧武家屋敷群に到着。県道上の路肩は充分広いので、麓川に架かる橋のそばに駐輪した。その橋の名前は…、「こかん橋」だぁ!ヒデがニヤニヤしながら写真を撮っていた。
 約250年前に建造された武家屋敷群は在郷武士の集落で、現在7つの庭園が保存され、観光客に解放されている。これらは現在も子孫が住んでおり、行政が管理するのではなく、武家屋敷保存会の方々によって守られ、保存されている。県道から1本南側にある細い道沿いには、公開、非公開も含めて数百mに渡って様々な屋敷が立ち並び、どこも垣根(イヌマキ)がきれいに手入れをされていて趣がある。しかし、住んでいる人達は、なかなかご苦労があると思われる。7つの庭園は500円の共通チケットで見学できる。どの庭園も想像していたよりこぢんまりとしていたが、個人の屋敷なのでこんなものであろう。縁側に座って茶でも飲みながら眺めるにはちょうどいいかもしれない。門の内側に石壁のシケインがあって、外敵がストレートに入れないようになっているのが武家屋敷っぽかった。

武家屋敷(石壁のシケイン)
 お次はバイクで2〜3分の距離にある知覧特攻平和会館に行った。知覧には1941年、訓練飛行場(大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所)が造られ、少年飛行兵・学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていた。しかし、戦況が悪化し、1945年に本土最南端の特攻基地となったのだ。特攻平和会館(500円)には、1,035人の隊員の写真が、出撃した月日の順に並べられていた。その下には、特攻隊員達が家族や知人に遺した遺書、手紙等が展示してあった。達筆なものが多く、おそらく生きていればすごい発明や、世の中の役に立つようなことをやったかもしれない若者達が散っていったことを想うと、戦争の愚かしさを痛感する。GTEC達の地元からも何人か出撃していた。屋内には疾風、飛燕、零戦の実物も展示されていた。ここもじっくり見ていると半日かかってしまうので、ポイントだけ抑えて外に出た。

海底より引き上げられた零戦
 近くにある鹿児島銀行で、宿のキャンセル料(1人1,000円)を振り込み、13時、枕崎に向けて出発。
 県道27、34号線を約20km走り、枕崎のお魚センターに到着。昼食に2階の食堂でカツオのタタキ定食(1,100円)を食べた。枕崎と言えば、全国でも有数のカツオの水揚げ量を誇っているので期待していたのだが、お味はそれほどでもなかった。250席ある大食堂は、ゴールデンウィークだというのに閑散としていた。1階から2階にまたがる、高さ6m、直径3.5mもある円筒形の水槽に泳ぐ魚達も、心なしか寂しそうである。ここは漁港に面しており、お魚センターの隣りある公園には、陸揚げされた大きなかつお漁船が展示されている。ガイドブックに載っているそれはきれいで、内部も見学できると書かれていたのだが、実際は朽ち果て、立ち入り禁止のサビの塊であった…。

陸揚げされたかつお漁船
 14時30分に枕崎を後にし、R226で野間半島をひたすら海沿いに時計回りで走る。海沿いといっても道は常に断崖上をクネクネと曲がり、しかも国道とはいえ、センターラインのない細い道なので、透明度が高いきれいな海をのんびり眺めながらというわけにはいかない。その代わり、所々にある展望台からの眺めは絶景だ。ガイドブックによると、なかなか先に進めないので、時間に余裕を持って走るように書かれていた。実際この狭さなので、遅いクルマの後ろにはイライラした行列ができる。しかし、GTECの3人にとっては何の問題もない。さっさとこれらをパスして先に進んだ。

杜氏の里(野間半島)
 加世田市で県道20号線に入り、薩摩半島を斜めに縦断し、錦江湾側のR225に出た。とたんに交通量が増える。
 17時30分。約束していた交通安全教育センターで、原付スクーターに乗ったWさんと合流。そこからほど近い自宅に案内していただいた。自宅では、茶髪で大学生の息子さんと、柴犬の銀二、そして数羽の烏骨鶏(うこっけい)達が出迎えてくれた。息子さんもバイクに乗るそうで、思いっ切りカスタマイズされたカワサキのエストレヤ250が置いてあった。奥さんは仕事仲間とバーベキューに行っていて、まだ帰っていなかった。
 夜は寿司と刺身の出前をたくさん取ってくれ、更にビール、焼酎と大盤振る舞いであった。Wさんは毎晩晩酌しているらしい。特に焼酎に目がないようだ。酒にうるさいが、からっきし弱いヒデは、ついつい珍しい焼酎を勧められるままたくさん飲んでしまい、「いやぁ、今日は本当においしいお酒を、ありがとうございましたぁ!」と言うなり倒れこみ、部屋の隅に置いてあった火鉢に頭をぶつけ、幸せそうな顔のまま意識を失った。残されたウメとカンちゃんは、もう充分飲んでいたので、Wさんの焼酎攻撃をかわすのが大変であった。
 息子さんは途中で大学の友人に会いに行く為に退席し、奥さんは夜遅くに帰って来て、快く接してくれた。ちゃんと奥さんの了承は取っていたのである。
 ゼファー750は物置小屋の中にあり、酔っ払ったWさんはエンジンを回して見せた(夜遅いので、空ぶかしは控えめにしていただいた)。最近は滅多に乗ることはないようで、メッキも輝きを失いつつあった…。やはり一緒に乗る仲間がいないと張り合いがないそうだ。
 部屋に戻り、酔いも最高潮に達したところで、Wさんがとんでもないことを言い出した。「お願いします!雄鶏を1羽絞めてくださ〜い!」2羽いる烏骨鶏の雄鶏のうち1羽を殺してくれと言うのだ。「私にはかわいそうでできんのです!」実は元々烏骨鶏はオスメス1羽ずついて、増やすつもりはなかったのだ。しかしちょっと気を抜いた隙に雌鶏が卵を暖めてしまい、かわいいひよこが孵ってしまった。そのうち1羽がオスで、大人になった途端、お父さん鶏とボスの座を賭けて決闘し、お父さんを負かしてしまったのだそうだ。Wさんがピクリとも動かなくなったお父さん鶏を丁重に土に埋めかけた時…、むっくり起き上がって復活した!以来、2羽を一緒にすると喧嘩するので、今は敗れたお父さんだけ隔離されている。Wさん的にはお父さん鶏の味方であり、雌鶏は卵を産むからいいが、雄鶏は2羽いても仕方ないし、何より朝鳴いてうるさいので、子供の方を殺してくれと言うのだ。絞めた鶏は近くにさばいてくれる所があるらしい。ウメとカンちゃんは、そこに絞めるのも頼めばいいじゃんと思いながら、いや、酔っているからこんなことを言うけど、なんやかんや言って2羽とも愛着があるのだろうと…、い、いや、本当は単に面倒臭くって、笑ってごまかした。あと、犬の銀二はとにかくアホだと嘆いておられた。
 こうして楽しい宴会は0時くらいでお開きになった。
 ちなみに夜中の3時くらいから庭の烏骨鶏の雄鶏が「コケコッコー!」と定期的に鳴き始めた。ここは住宅密集地である。GTEC達3人は一晩限りなのでまだ我慢できるが、毎日これでは近所の人から苦情が来るのでは…?なるほど、2羽雄鶏がいると、うるささも2倍。やはり絞めようか?
 本日の走行距離:176km
宿データ 宿名 Wさん宅
場所 鹿児島県鹿児島市下福元町
感想 「(ウメ)いやぁ、本当にすごい家だったねぇ…。」
「(ヒデ)泊めていただいておいて、それ以上は言っちゃいけねぇ。」
「(カンちゃん)家の中の様子は、ぜひともエピソードのコーナーで紹介したいところだけど、3人の胸の中に思い出としてしまっておこうね。」
5月3日(土) 天気:晴れ
 6時30分、すぐ近くにある慈眼寺温泉に、Wさんご自慢の昭和62年式ウィンチ付きパジェロで連れて行っていただいた。朝風呂で二日酔いを醒まし、シャキッとしたところでWさん宅に戻り、奥さん手作りの朝食をいただく。飼っている烏骨鶏が産んだ卵の玉子焼きは実にうまかった。
 そして8時に出発し、指宿スカイライン谷山IC入り口付近までWさんにパジェロで先導してもらって別れた。寝床はもちろんのこと、豪華な夕食、酒、温泉の入浴料まで全て奢っていただき、Wさんには本当に感謝している。GTECのツーリングの歴史において、旅先で知り合った人の家に泊まったことは初めてであった。これこそ旅の醍醐味というものであろう。「(ウメ、カンちゃん)烏骨鶏の件、本気だったのだろうか…?」「(ヒデ)何の話?あれ、頭にこぶができてらぁ…。どこでぶつけたんだろ。」
 指宿スカイラインから九州自動車道に入り、北上する。交通量がかなり多い。溝辺鹿児島空港ICで高速を降り、鹿児島空港北側から県道56号線を東進し、R223に入って霧島神宮を目指す。霧島神宮まではけっこう快適な道で、交通量も少なかった。10時前に到着。
 霧島神宮は元々もっと霧島山に近い場所にあったのだが、霧島山の噴火によって消失と再建を繰り返し、約500年前にこの地に移されたのだ。うっそうとした杉の木々に囲まれた格調高い朱塗りの本殿が印象的だ。同じ霧島エリアでも、ウメとカンちゃんは「グレートツーリング '01 in 九州」では、えびの高原の賽の河原に寄った。あそこは見渡す限り岩と火山灰の景色で、硫黄の匂いが立ち込め、所々蒸気が噴出していた。まさに荒涼という言葉がピッタリで、こことは正反対な景色であった。このように、ひとつのエリアでも様々な顔を持っているのだ。

霧島神宮
 さて、ヒデはここの駐車場に来る手前の郵便局に、カネを下ろしに行くと言ってバイクで走り去った。ウメとカンちゃんは神社の駐車場で待っていたのだが、ヒデはなかなか戻って来ない。すぐ来るからと言っていたのに、どういうことだ?30分経過しても来ない。ひょっとして事故に遭ったか?心配してウメが偵察に出たら、ヒデがふもとの方角からやって来た。郵便局が休みだったので、何と、12km以上離れた霧島神宮駅前の銀行まで行って来たのである(しかも、銀行も休みだった!)。おかげで炎天下の下、2人はぼ〜っと45分も待たされたのだ。「(ウメ、カンちゃん)平和祈念公園の復讐なのだろうか…。」ヒデはカネをなるべくクレジットカードで支払い、家までもたせることにした。
 11時過ぎに宮崎市青島に向けて霧島神宮を出発。引き続きR223を走り、高原ICで宮崎自動車道に乗った。
 あらかじめ山之口SAで昼食にしようと打ち合わせておいたのだが、なぜかこのSA手前で突然ヒデが、バトルをするような相手もいないのにアクセルを開け、ウメを追い越し、更にSAも通り過ぎて先に行ってしまった。「(ウメ、カンちゃん)気でも狂ったか〜!?」
 ウメとカンちゃんは山之口SAに寄ったものの、ヒデが先に行ってしまった事実を知っている以上、トイレ休憩のみで出発せざるを得なかった。そして終点の宮崎IC出口でヒデは待っていた。「(ヒデ)わりぃ、オレの頭の中のマップでは、サービスエリアはもっと先だったんだ。眠くなってきたから、ちょっと飛ばしてみたのがいけなかったな…。」ヒデの頭の中のGPSは相当狂っているようだ。
 昼食はお預けで青島に向かう。太陽が高くなるにつれ、気温がどんどん上昇していく。同じ気温でも、沖縄の方が暑く感じるのは、湿度や降り注ぐ紫外線の量によるのかもしれないが、宮崎も暑いものは暑い。既に腕の日焼けが黒く定着したウメはTシャツモードになった。反面、水ぶくれ状態のカンちゃんとヒデは、これ以上焼くとえらいことになってしまうので、いくら暑くてもジャケットを脱ぐわけにはいかなかった。
 12時50分、青島着。ウメとカンちゃんは「グレートツーリング '96 in 九州」以来2度目だ。ちょうど干潮で、青島まで橋を使わず、鬼の洗濯岩と呼ばれる波状の岩の上を歩いて渡った。この小さな島の中央に位置し、亜熱帯植物に囲まれた青島神社の社殿で参拝し、島の周りを歩いて一周した。そして14時に土産店の建ち並ぶ通りにあるレストラン「青島」で遅い昼食にした。「(ヒデ)いや、まったく、今日はオレのせいですまん!」

青島
 15時前にウメとカンちゃんは宮崎神宮と平和台公園(ともに宮崎市内)を見に、ヒデは宮崎駅周辺で焼酎を買う為に散った。フェリーターミナルで17時集合予定だ。
 宮崎神宮は約25ヘクタールにも及ぶ広い敷地を持ち、うっそうと立ち並ぶ杉の中に、狭野杉で造られた流造りの神殿がある。霧島神宮や青島神社と違い、カラフルさはなく、硬派な印象を受ける。東神苑には、樹齢600年を超える国指定天然記念物のオオシラフジがあり、4月中旬になると見事な花を付け、人々を魅了するらしい。もちろん、とっくに散っていた。参拝客はほとんどなく、ひっそりとしていた。
 平和台公園は宮崎平野を一望できる高台に位置する公園で、中央に高さ37mの平和の塔がそびえる。この公園の一角に「はにわ園」というのがあった。全国各地で発掘された埴輪(はにわ)や土器の複製約400点が並べられていて、見ていてほほえましい。しかし夜は無気味かもしれない。時間は余裕だったので、しばらく公園でのんびりと休憩してから出発。途中、コンビニに寄ってフェリー内で食べる食料を調達し、17時までにフェリーターミナルに到着した。

はにわ園
 ヒデは幻の焼酎と言われる逸品を探して廻った。宮崎駅の中2軒、駅周辺3軒、デパ地下1軒、駅の観光案内所お勧めの店1軒…。確かにその焼酎は存在するのだが、どこにも置いてなく、どの店の人からも「諦めた方がいい。」と言われた。だからこそ幻なんじゃないか!とがんばって探したのだが、やはり本当に幻であった。結局第二希望の焼酎を買って時計を見ると、既に17時を過ぎている。まあ出港は19時10分だし、まだ余裕だろうと、コンビニに寄って食料を買い込み、立ち読みまでしてからフェリー埠頭に向かった。
 17時30分過ぎにヒデがフェリーターミナルに着くと、ウメとカンちゃんが首を長くして待っていて、「早く乗船手続きをしろ〜!」と言う。既に2輪の乗船が始まっていたのだ。結果的には余裕で乗船でき、薄暗い中、フェリーは宮崎を出港した。さらば九州!

おおさかエキスプレス
 本日の走行距離:約210km
宿データ 宿名 マリンエキスプレス「おおさかエキスプレス」
場所 宮崎→大阪の太平洋上
感想 2等寝台は2段ベッドの12人部屋。約12時間の航行に充分な設備を有している。ベッドにある照明はコンセント付き。大浴場は無料の鍵付きロッカー、シャンプー、ボディーソープ完備であった。今回利用した3隻のフェリーは、いずれも就航年がほぼ同じなのだが、快適さはこのフェリーが群を抜いている。それは、いかに客船度が高いかというところに依存していると思われる。高いカネを払って沖縄にわざわざクルマを積んで行く観光客はそうそういまい。それこそ、飛行機で行って現地でレンタカーを借りた方が、時間も節約になるし、おつりもくるのだ。
1997年就航。総トン数:11,900t。
乗船券:9,960円(2等寝台)プラス単車:4,080円
5月4日(日) 天気:晴れ
 7時30分入港。沖縄行きのフェリー内では、初日に悪天候の為に出発が遅れて見れなかった奈良か京都に寄って行こうかと話していたのだが、さすがにそんな元気は残っていなかった。今日はただ帰るのみである。
 南港中ICで高速に乗り、往路と逆の道をひた走る。名神高速大津SA、養老SAで休憩し、中央自動車道虎鶏山PAで給油&昼食タイム。しかし、3人の中で最も南(塩尻市)に住んでいるカンちゃんは、自宅で昼食にするべく、一足早く帰って行った。実質的にここで解散である。「(3人)お疲れ〜!」

大津SA
 その後、カンちゃんは塩尻ICで降りるまで終始100km/h巡航で帰った。
 ウメとヒデは、伊那ICの辺りまでは2台揃って100km/hで走っていたのだが、段々眠くなってきたヒデは、「じゃ!」とウメに片手を上げると、アクセルを開けて先に行ってしまった。車線変更も面倒臭かったので、追い越し車線をず〜っと140〜150km/hという中途半端な速度で走り続けるヒデ。覆面のいい餌食である。
 ウメはヒデを見送った後、特にスピードを出す理由もなく、しばらく100km/hで走行車線を巡航していた。さすがに彼も眠くなってきて、バトルをするような速いクルマが来ないか期待していた。するとS2000がけっこうなスピード差で追い越していったので、自動的に戦闘モードに入り、追跡した。あっという間に追い着き、ピッタリ後ろに付ける。相手は気付いたらしく、加速した。しかし隼を引き離せるわけはなく、おまけに180km/hでその加速は止まった。「(ウメ)何だよ、リミッター付きかよ。つまらん!」S2000は戦意を喪失したらしく、走行車線に寄って道を譲った。ウメはしばらく200km/hで走って走行車線に戻り、100km/hまで速度を落とすと、すぐに後ろからR33GT-Rが抜いていった。ってことは相当なスピードで飛ばし続けていたことになる。S2000でガッカリしていたウメは「そうこなくっちゃ!」と追い越し車線に移り、アクセルを開けた。ギアは6速のままであるが、みるみるGT-Rのリヤバンパーが迫ってくる。しばらく様子を伺う。相手は200km/h以上で巡航しているので、リミッターはなさそうだ。一旦“障害物”の為に130km/hまで速度が落ちる。再び前がクリアになると、GT-Rはマフラーから黒煙をもうもうと吐き出し、加速し始めた。なかなかいい加速だ。ちょうど直線で走行車線にもしばらくクルマがいない。最高のシチュエーションじゃないか。「(ウメ)勝負!!」ウメは4速に落としてアクセル全開にし、左側から一気にGT-Rを抜き去ると、追い越し車線に入って280km/hまで加速した。もはや奴はミラーに映ってもいない。このまま一昨年みたいに320km/hまで持っていくか?さすがに山間部のこの道ではそれは恐くてできなかった。っていうか、280km/hだって、長時間維持するのは不可能だった。そのうち岡谷ジャンクションに差し掛かり、長野自動車道に入ると、ウメは100km/h巡航に戻した。その後は、抜いていくクルマといえば、ファミリーカーや商用車だけで、相手にするほどのものは現れず、最後まで安全運転だった。
 ヒデは結局覆面や更に速いクルマにも行き会わず、豊科ICまでウメに追い着かれることもなかった。
 こうして14時には全員自宅に無地帰り着き、ついにカッパを着ることは一度もなく、ツーリングは大成功で終了したのであった。
 本日の走行距離:402km(長野自動車道みどり湖PAまで)

 後日、ヒデが荷物を整理していると、タンクバッグのポケットから車検証が出てきた。そう、しっかり持って行っていたのだ。初日のフェリーターミナルでは、普段使ったことのないこのポケットには、最初からないものと思い込んで探さなかった。大体、入れた記憶自体がないのだから始末に負えない。出発前日の夜にあわてて準備をしたのがいけなかったのか?何事もゆとりが大切である。

レポート by ウメ


グレートツーリング外伝 '03 in 日光
メンバー(マシン) ウメ(GSX1300R)、オユタ(RGV250γ)、カンちゃん(YZF1000R)、ヒロ(GPZ900R)、マコちゃん(R1100RS)
 今年ラストを飾るツーリングはどこにしようか?GTECのメンバーは話し合った。そして、マコちゃんの「日光東照宮に行ったことがないので見たい。」という希望が採用された。
 実は2001年のラストツーリングでも、最初は候補として挙がっていた。しかし日光周辺は紅葉シーズンが始まっており、おそらくゲロ混みと思われ、この時は結局ヒデ提案の能登半島に決定したのだ。その時、いろは坂の登りの渋滞が数時間待ちだと報じていたニュースを宿で見て、みんなで「行かなくてよかった〜。」と言ったものだ。混むのは覚悟の上。まだ誰も紅葉シーズンの日光には行っていないし。バイクの機動力を活かせば、渋滞も回避できよう。さすがにR158のようなことにはなるまい(「グレートツーリング外伝 '01 in 能登」10月7日のレポートを参照)。行くぜ、日光!
 ヒデは仕事が尋常になく忙しく、参加できなくなった。
10月11日(土) 天気:晴れのち曇り
 7時、R254三才山トンネル料金所出口にある駐車スペースに集合。ここは山の中。紅葉はまだ始まっていないとはいえ、肌寒い。吐く息が白いのだ。
 7時30分出発。隊列はウメ、カンちゃん、ヒロ、オユタ、マコちゃんの順。R254→県道174号線→R152→R18と快調に走り、軽井沢から碓氷峠を越えた(バイパスじゃない方)。この道はセンターラインのあるワインディングで、タイトなコーナー(184箇所!)が連続してひたすら続く。とは言ったものの、全員ここを走るのは初めてなので、全開走行とはいかなかった。9時30分、峠の終盤にある旧々信越本線第三アーチ(通称めがね橋)に到着。
 長野新幹線が開通し、1997年9月30日をもって信越本線の軽井沢〜横川駅間は廃線になった。更にその昔、アプト式と呼ばれる電車がこの峠を走っていた。アプト式とは、機関車の車輪の間に装備した歯車をラックレールに噛ませる方式で、1,000mで66.7mも上昇する急勾配の為に採用された。やがて、輸送量の増加に対応し切れなくなり、通常の粘着式運転の強力な電気機関車にバトンタッチされ、アプト式は姿を消したのである。
 めがね橋はそのアプト式の頃のアーチ橋で、明治24年(1891年)から2年の歳月をかけ、200万個ものレンガを使って造られた、実に100年以上前の代物なのだ。それにしては傷みが少なく、古ぼけたレンガの色がいい味を出している。橋の上は整備されて遊歩道になっており、横川駅からここまで歩ける(かなりの距離だ)。観光客はほとんどいなかったので、じっくり堪能することができた。

めがね橋
 次の目的地は横川駅近くにある旧丸山変電所。明治45年(1912年)、横川〜軽井沢間が電化され、ドイツ製アプト式電気機関車10000型によって営業運転を開始した。丸山変電所はその前年に完成した、やはりレンガ造りの古い建造物なのだ。
 めがね橋を後にし、バイクで走ること数分。横川駅近くから丸山変電所に至る道の入り口に到着。しかしここで誤算が…。横川駅から丸山変電所まではえらく距離がある。しかし地図上では道があるのでバイクでひとっ走りかと思っていたところ、車輌進入禁止の遊歩道であった。この遊歩道は旧信越本線の線路上を歩けるようになっており、下り線側はレールもそのままで、廃線っぷりを満喫できる。上り線側は整備され、容易に歩けるようになっている。脇に農作業用のものと思われる、未舗装で細い道があるが、オフ車でもない限り、走るのは無理そうだ。仕方なく入り口近くにある駐車場にバイクを置いて、徒歩で変電所に向かった。

旧丸山変電所への遊歩道
 歩くこと約20分、ようやく丸山変電所に到着。実はここ、数年前までは廃墟マニアの間では有名な場所で、建物は天井が抜け落ち、内部は苔だらけで朽ち果て、周囲も草ボーボーの、まさしく廃墟だったらしい。しかし今では修復工事が終わり、すっかりきれいな建物になっていた。柵があるので近付いて中を覗くことはできないが、ただのがらんどうのようであった。あまりにきれい過ぎて、めがね橋ほどの趣はない。

旧丸山変電所
 すぐ近くには小さな田んぼが何枚かあり、夫婦とおぼしき翁(おきな)と媼(おうな)が稲刈りをしていた。この人達が生まれた時から既に変電所はあった筈だ。実際に稼動していた頃も知っていると思われる(1963年まで稼動)。どんな思いでこの建物を見続けてきたのであろうか。
 来た道を引き返して駐車場に戻る。気温はみるみる上昇してきて、暑いくらいだ。この駐車場は横川駅に併設されている鉄道テーマパークの鉄道文化村に面しており、駅舎まではけっこう距離がある。駅で名物の釜飯を食べる為に、バイクで移動するべく準備をしていたら、40代後半くらいの怪しげな男が近付いてきた!
 その男は、近くに停めてあった白いクラウンから降りてきた。スモークガラスのせいで、人が乗っているとは気が付かなかったウメ、カンちゃん、マコちゃんの3人は、不意を突かれた(オユタとヒロは少し離れた所にバイクを停めていた)。強面(こわもて)で、見るからにそれ系っぽい。やばい、からまれる!更に男はポケットに手を入れた!さ、刺される!いや、ま…、まさかハジキ!?思わず3人は身構えた。
 「警察なんだけど。」ポケットから出したのは警察手帳だった。何でも、最近車上狙いが多発しているので、要所要所で張って警戒しているのだそうだ。「バイクも狙われるから気を付けてね。」とやさしいお言葉。その後、しばしツーリングの話で盛り上がった。ご苦労さんです。
 一方、一部始終を遠巻きに見ていたオユタとヒロは…。「(ヒロ)おい、あれ、からまれてるんじゃないのか?どうする?」「(オユタ)あいつらが体を張ってオレ達を逃がそうとしているのが分からないのか!?よし!逃げる準備だ。」という恐ろしい会話をしていたという。
 横川駅で釜めしを買い、駅前のテーブル付きベンチで昼食タイム。駅弁を食べると「旅してる〜。」って実感が沸いてくる。…と今度は制服のおまわりさん登場。ご苦労さんです。
 既に11時30分。丸山変電所で思いのほか時間を取られ、予定より大幅に遅れている。これでは肝心な日光東照宮の滞在時間が短くなってしまう。とは言ったものの、この駅にはEF63(碓氷峠専用の補助機関車)や189系「あさま」等が保存されており、別に鉄道マニアではないGTEC達も、せっかく来たのだからと写真を撮った。さすがに鉄道文化村には寄らなかったが…。(そんなことをしたら、それで1日が終わってしまう。)

横川駅
 11時50分、横川駅出発。R18を高崎まで順調に走る。予定では高崎市街を突っ切って県道27号線に入り、前橋市を回避してR50に出るつもりだった。高崎市街の手前でR18はR354とR17に分岐するのだが、先頭のウメはとにかくひたすら直進すればいいのだからと、適当に右側の車線を走っていた。ふと気が付くとその車線はR17に入っていて、道路は高架橋になり、どんどん右に曲がっていく…。「(ウメ)まずい、間違えた!このままでは東京に行ってしまう!」ウメの地図には車線までは記載されていなかったのだ。高崎市街は交通量が多く、また一方通行もあったりで、本来のルートに復帰するのにだいぶ手間取ってしまった。こんなことで時間をロスするわけにはいかないのに…。だんだん気持ちが焦っていく。
 R50を少し走って赤堀町から県道73号線に左折すると、やがてR122に入った。あとはこの国道をひたすら進めば日光だ。地図上ではそこそこのワインディングだし、少しは楽しめそうだ。とその前に道の駅「くろほね・やまびこ」でトイレ休憩。

道の駅「くろほね・やまびこ」
 14時20分に道の駅を後にし、日光を目指す。序盤は快適に飛ばせた。この分なら15時くらいに東照宮に着けるであろう。…と前にクルマの一団発見。先頭は遅〜いトラックだ。その後ろに7〜8台の普通乗用車が続いている。追い越し禁止だし、そのうちトラックは信号に引っ掛かるであろうから、そこで一気に前に出てしまえばいいと、しばらく我慢して走る。しかしほとんど山の中の1本道なので、滅多に信号がない。おまけにこのトラック、コーナーでは人が歩く程に速度を落とす。決して道を譲ろうともしない。「(ウメ)ダメだ。このままでは気が狂う。健康に悪い。直線で一気に抜いちまおうか。だがみんな付いて来るだろうか?」ひたすら耐えに耐えながら走っていると、久しぶりの信号が赤である!トラックは停止。「(GTEC)今だぁ〜!!」ところがその信号は短かった。パスできたのはウメ、カンちゃんと、なぜか最後尾のマコちゃんであった。どうやら車列の左右どちら側から前に出ようとしたかで勝敗が決したようだ。前に出ることができた3人は、とりあえずアクセルを開けて先行した。トラックに堰き止められていたおかげで、前はオールクリア。快適に走ることができた。やがて東照宮の手前まで到達し、路肩に停車してオユタとヒロを待つ。待つ!待つ!!2人はなかなか来ない。最後まであのトラックをパスすることができなかったのだろうか?いや、そんなことはなかった。なぜなら、先程抜いたトラックが3人の横を走り去っていったからだ。なのに一向にオユタ達は現れない。何かあったのか!?更に待つこと数分、これは本当に事故にでも遭ったのかもしれないと、みんなでUターンしようとしていた所に2人がやって来た。聞くと、トラックはパスしたものの、途中で道を間違えてしまい、難儀していた所に近寄ってきたおばあさんに道を教えてもらったそうだ。「(ウメ、カンちゃん、マコちゃん)ほとんど1本道なのに、どうやったら間違えるんだ〜っ!?」いや、先頭が自他共に認める方向音痴のヒロでは…、不思議でもなかった。
 東照宮近くは渋滞していたが、そこはバイク。すり抜けで簡単にパス。路肩が広くて助かった。東照宮ではどうせ土産を買うつもりだったので、お土産屋さんの駐車場に了解を得てバイクを停めさせていただいた。時刻は15時30分。既にゆっくりと三社を廻れる時間はなかった。せめて東照宮だけでもと、表門に向かう。
 日光東照宮は言わずと知れた、1617年に徳川家康を奉祀して創建された神社である。数々の国指定文化財を有し、1999年には世界遺産にも登録された。目に付かないような所にある小さな彫刻ひとつをとっても非常に手が込んでいて、これほどあからさまにカネと手間のかかった神社は、日本で他にはないだろう。まさに権力の象徴だ。
 表門横にある拝観受付所で入場料を払って進むと、左手に神厩舎(しんきゅうしゃ)が見えてきた。神厩舎とは、神の乗り物である神馬(しんめ)の厩舎である。昔、猿は馬を災難から守るとされた。ひさしの下には猿の誕生から妊娠までがコミカルに彫られており、人間の一生を風刺していると言われている。その中でも有名なのが「見ざる言わざる聞かざる」だ。ドロドロとした大人の醜い世界を可愛い子供達には“見せない”“言わない”“聞かせない”というわけだ。さすがに人気スポットであり、撮影待ちの行列ができていた。

東照宮
 お次は陽明門。唐獅子、竜、鳳凰、麒麟、竜馬、獏等の想像上の動物や菊、牡丹などの植物、そして孔子、孟子をはじめ、中国の故事や人物などの様々な彫刻がびっしりと施されている。その数約500!日本の建造物で、装飾に人物の彫刻が飾られるのは珍しい。その彫刻も緻密でカラフルで、いくら眺めていても飽きない。東照宮の中では最も派手な建築物なのではないだろうか。しかし残念ながら時間が押しているので、先に進む。もっと早く着いていれば…、誰しもそう思ったが、なかなか予定通りにいかないのが実際だ。仕方あるまい。
 陽明門をくぐると、目の前に本社と唐門が現れる。陽明門の派手さからすれば、いくぶんおとなしい印象を受けるが、なかなかどうして、本社内部は装飾がみごとで、やはり隙がない。
 坂下門。ここには先程の猿と同じくらい有名な「眠猫」の彫刻がGTEC一行を見下ろしていた。いや、眠っているのでそれは無理というものか…。裏側には猫が寝ているので安心してか、スズメ達が元気に遊んでいる彫刻がある。
 坂下門の先に長々と続く階段を登ると、家康の墓があった。カラフルさはなく、威厳漂う立派なものだった。まさかこの場所まで一般人が徘徊できるようになろうとは、江戸時代では考えられなかったことだろう。
 本地堂(薬師堂)では有名な鳴竜を体験した。天井に描かれている巨大な竜の頭の下で拍子木を打つと、天井と床が共鳴して鈴のような鳴き声に聞こえる。そう聞こえる所に竜の頭を描いたのか、最初からそう設計したのか、興味深いところだ。
 …と駆け足で観てきたが、残念ながら閉門時間だ。東照宮を堪能するには、連泊して1日かけてゆっくりと観るのがよかろう。土産屋で各自買い物を終えた頃、外はだいぶ暗くなっていた。
 東照宮近くのガソリンスタンドで給油後、スタンドの人に教えてもらったホームセンターに寄った。明日の天気は雨…。オユタは昨日残業で夜遅くに帰って来てからツーリングの準備をしたせいか、いや、普段きちんと整理整頓を行なっていなかった為に、カッパとリヤシートの荷物固定用ネットが、出発までにどうしても見付からなかった。結局リヤシートの荷物は荷作り用ビニール紐で固定し、雨の予報が出ていたにも関わらず、カッパなしでこのツーリングに臨んだのだ。そこで、間に合わせでもいいから、とにかくここでその2点を購入することにしたのだ。
 オユタが買い物を終えたのが17時30分。あとは今市市にあるグリーンロード日光杉並木ユースホステルに、宿のホームページからダウンロードした地図(地図1)を頼りに向かうのみ。この地図によると、下野大沢駅から北東に延びる道路を駅に向かって走り、セブンイレブンがある交差点を左折すれば、すぐユースホステルだ。18時には着けるであろう。

地図1
 夜のツーリングは久しぶりだ。暗い中では後続のライトが果たして誰のものなのか判断しにくいので、隊列を維持することは至難の技である。それでもR119は順調に流れ、信号で隊列が分断されることもなく、5台揃って下野大沢駅の標識に従う。
 ところが、目印のセブンイレブンが見付からないまま下野大沢駅まで来てしまった。おかしい!道は間違えていない筈だ!先頭のウメは駅前にバイクを停め、やはり同じ地図を印刷していたオユタと共に首を傾けた。「(オユタ)どう見たってこの道でいいだろ。」そこにマコちゃんがやって来て、「曲がるポイントは過ぎてしまったようだね。」と言って別な地図(地図2)を見せた。それはホームページで地図1の下に“プリント用周辺MAP”とリンクしてあったモノクロJPEGファイルであった。地図2では、セブンイレブンが1本隣の道沿いに描かれている。なぜこのように、両者のアレンジを大幅に変えるのであろうか?まぎらわしいことをする。地図2の通りに走ると、あっけなく宿の入り口を発見。

地図2
 少し迷ったおかげで18時を過ぎて宿に到着。ウメは早速チェックイン時、受付で地図の分かりにくさを訴えた。しかしヘルパーに「確かに分かりにくいですが、間違ってはいませんよ。」と半ば強引に押し切られてしまった。「(ウメ)絶対納得いか〜ん!」
 夕食は「ゆば」の特別料理。ゆばの刺身、お浸し、鍋に舌鼓を打つ。うまかった。明日の天気予報は相変わらず雨であるが、午前中には上がる見込みだ。天気の回復が早まりますように、と祈りながら各自床に就いた。
 本日の走行距離:222km(三才山トンネル料金所から)
宿データ 宿名 グリーンロード日光杉並木ユースホステル
場所 栃木県今市市木和田島2112-7
感想 ガイドブックでは四つ星のユースホステルということになっているが、数々の四つ星ユースホステルに泊まってきたGTEC達にしてみれば、大いに疑問である。施設は古いし清潔さにも欠ける。逆に評価が三つ星なら納得。夕食がおいしいのが救いか。東照宮までは20kmほどあり、決して近くはない。大体、日光と名乗っておきながら、日光市じゃないじゃん。予約確認のメールを出したのに、返事が来やしない。ここを宿泊先に選んだのは、紅葉シーズンとあって、他に宿が取れなかったに過ぎない。
1泊2食付き:会員5,500円、非会員6,500円
10月12日(日) 天気:雨のち曇り
 雨が降っていなければ、早朝に出発するつもりでいた。そうすれば、いくら紅葉シーズンとはいえ、いろは坂を攻めることができるのではないかと考えていたのだ。だが、それはもう諦めていた。雨である。ザーザー降っている。予報は昨晩と変わらず、午前中には上がることになっている。今日の予定は、いろは坂を登って華厳の滝、中禅寺湖、戦場ヶ原を見てから金精峠を越え、R120→R145→R144→R143で帰るというものだ。しかし雨の中、クルマならともかく、バイクでこれらを廻っても辛いだけだ。協議の結果、しばらく宿で待機して様子を見ることにした。
 宿の人から同情されながら、ひたすら待つ。10時を過ぎた時点で、霧雨になっていた。だが、11時近くなってもそれ以上回復する気配がなかったので、意を決して出発することにした。路面はセミウェット。カッパを一応着用して宿を発った。
 まずは大沢ICから日光宇都宮道路に乗り、終点まで走る。すると、終点の6km程手前にある日光ICあたりから渋滞している!まさか華厳の滝まで繋がっているんじゃないだろうな?と思いつつ、すり抜けでさっさと先に進む。
 R120に入り、いろは坂へ。やはり渋滞は続いていた。いろは坂は登りと下りが別ルートで独立しており、登りは2車線道路となっている。それでも両車線にぎっしりとクルマが連なっていた。路肩は狭いので、クルマの間を縫ってのすり抜けとなる。しかも、霧雨は相変わらずで、路面も濡れており、曲がりくねった急な登り坂の道を、極低速域で登っていくのだ。おまけに、昼どきとあって気温は上昇し、湿度も高い。加えてエンジンの熱が容赦なく襲ってくるので、カッパを着た彼らにとってはサウナ状態だ。スピードが出せなければ涼しくなんかならない。さ〜らに!濃い霧が立ち込め、視界が悪く、紅葉も見えない!これはもはや修行である!!
 何とか明智平の駐車場に到着し、ここで昼食タイム。雨は完全に上がり、路面もドライになった。霧で近くの木々しか見えないが、きれいに紅葉しているようであった。とにかく、まずはカッパを脱ぐ。この開放感…、少しほっとした。更に、近寄ってきた観光客のおばさんに「バイクはいいわねぇ。私達なんて、高速を降りてからここまで来るのに何時間かかったことか…。」と言われ、だいぶ苦労が報われた気分になった。

渋滞、霧…(明智平駐車場から)
 と、ここで最後尾のマコちゃんがいないことに気付く。今回のツーリングでは、パニヤケースは装着して来ていないので、さほどすり抜けに苦労することはないと思うのだが…。待っているとウメの携帯が鳴った。「(マコちゃん)油温計がレッドゾーンに達してしまったんで、冷却中だ。先に飯を食っていてくれ。」ということだ。その程度かBMW!?ドイツにはこのような過酷な状況は発生しないのだろうか?それに引き換え、さすがは日本車。1300ccですらオーバーヒートする気配がない。
 4人がドライブインで昼食を済ませた頃、マコちゃんがようやくやって来た。彼は更にみんなを待たせるわけにはいかないと、急いで出店で軽食を摂り、「先を急ごう!」と言ってくれた。時刻は既に13時20分。もはや当初予定していたルートで帰る気はなかった。群馬県沼田市から高速で一気に帰るつもりである。
 結局華厳の滝駐車場まで渋滞は続いていた。もちろん駐車場は満車だが、バイク置き場は空いていたのですんなり入れた。この霧の中では滝など見えないかもしれないが、とにかく展望台に歩く。
 案の定、無料展望台から見えるのは、白い景色だけ。滝の音がむなしく響く。一応滝を下側から間近に眺めることができる有料展望エレベーターの乗り場に行ってみる。すると、ライブカメラに滝がうっすらと映っているではないか!?というわけで、せっかく来たのに滝を拝まずして帰れるかと、カネを払ってエレベーターに乗り込んだ。
 滝は何とか拝むことができた。とは言っても、やはり霧の為、すぐ目の前なのにクリアには見えなかった。ライブカメラの通りである。晴れていれば、おそらく赤と黄色に色付いた木々の間に滝が流れ落ちている様が見えることであろう。贅沢は言えない。これでよしとしよう。

うっすらと見える華厳の滝
 駐車場に戻って出発の準備を終えた頃、「(ヒロ)おお、あれが男体山か。紅葉がきれいだな。」と言った。何!?ということは…気付けば霧が晴れているではないか!?っと滝の方向に目をやると、そこだけ霧が溜まっているようで、まるでくぼんだ所にパテ埋めしているかのごとく真っ白だった。戦場ヶ原目指して出発!
 途中、中禅寺湖の湖畔で記念撮影。ここではゆっくりする気分になれなかった。なぜなら、戦場ヶ原方面も渋滞していたからだ。まさか戦場ヶ原までず〜っと繋がっているのでは?実際そうだった…。反対車線もひたすら詰まっている。GTEC達にとって、一般道でこれほどひどい渋滞は初めての経験である。それでも明智平の駐車場でおばさんに言われた言葉は重い。クルマだったら家に帰れるのは何時になることやら。
 15時45分、戦場ヶ原に到着。標高1,400mの高地に広がる湿原地帯である。別に昔ここで実戦が繰り広げられたわけではない。神話の世界に登場する戦場だったのでこの名前が付いたのだ。しかも、戦ったのはムカデとヘビである。約2万年前の戦場ヶ原は、日光火山群の噴火で堰き止められた湖で、乾燥化や土砂の流入等で、現在の湿原に変わったらしい。このレベルの景色は、GTECの地元近くにある霧ケ峰でも見ることができる。記念撮影とトイレ休憩をして出発。暗くなってしまう前に沼田ICに着きたい。

戦場ヶ原
 ここから先はしばらくスムーズに流れてくれた。しかし反対車線は相変わらずで、湯ノ湖あたりまで渋滞が続いていた。彼らはこれから戦場ヶ原、中禅寺湖、華厳の滝と廻る予定なのだろうが、果たして何時になることやら。紅葉シーズンの日光をなめてはいけない。
 金精峠を越え、片品村の大滝ドライブインで休憩。ここの敷地内には金精神社があり、巨大なオチン○ンの金精様が祭ってあった。いつになく真剣に手を合わせる5人であった。

金精神社
 17時にドライブインを出ると、いきなり渋滞している!これは沼田ICまで続いているのか!?まだ30kmくらいあるぞ!?GTEC達は、まるで全力で戦ってボロボロになりながらも勝利したと思ったら、新たな強敵が現れた…といった感じで、気が遠くなってきた。
 またも予想を裏切らず(?)、渋滞は沼田まで続いていた。R120は決して広い国道ではない。暗い中のすり抜けは困難を極めた。常に高度な集中力を要求される。18時過ぎに道の駅「白沢」で休憩した時には全員身も心も疲れ果てていた。もはやここらへんで1泊してもいい気分だ。実際、真面目に検討し始める者も出てきた。だが、明日の天気予報は朝から雨だし、沼田ICは目の前だ。高速にさえ乗ってしまえば…。各自気合を入れ直した。
 ガソリン給油後、沼田ICから関越自動車道に乗って、南下する。交通量は多いが、100km/hで巡航できた。赤城高原SAで夕食。高速道路において安全な車間距離を保ってバイク5台が繋がって走ると、先頭から最後尾まではけっこうな距離になる。暗い中で隊列を維持するのは難しいので、次は上信越自動車道の東部湯の丸SAまで、各自自分のペースで走ることにした。
 藤岡ジャンクションで上信越自動車道に入った瞬間、ウメはアクセルを開けてあっという間に見えなくなった。オユタ、カンちゃん、ヒロの3人はつるんで走ることにした。今までのオユタなら、ウメに付いて行くところだが、今じゃ250cc…。高速道路ではおとなしく走るしかなかった。リミッターなんて効かせばえらいことになるし…(詳しくはメンバー紹介「オユタ→RGV250γ」を参照のこと)。マコちゃんはゆっくり、のんびり行くと決めた。
 ウメはず〜っと200km/h巡航で走り続けた。上信越自動車道は交通量が少なく、走り易かった。途中、何箇所か対面通行になったが、前にクルマはいない。すると、佐久ICを過ぎたあたりで、遥か後ろからヘッドライトの光が近付いてくるのに気付いた。「(ウメ)カンちゃんか?」GTECメンバーの中では、この速度域で追い付いてこれるとしたら、カンちゃんのYZF1000Rだけだ。しかしライトはふたつ、つまり追い上げてくるのはクルマのようであった。「(ウメ)こしゃくな〜。」正体を確かめたい気持ちもあったが、パトカーだったらえらいことになるので更にアクセルを開け、250km/hまで巡航速度を上げる。今回のツーリングではタンクバッグひとつに荷物をまとめ、シングルシートカウルを装着しているので、心置きなく飛ばすことができた。隼は絶好調で、あまりの安定感に恐怖心が薄らいでしまう程だ。トンネル内の直線では300km/hアタックも難なくこなせた。規制前の2000年モデルの恩恵にあずかれるささやかな一瞬だ。結局、その“光”は2度とバックミラーに映ることはなかった。
 東部湯の丸SAでウメが着いてから、最後尾のマコちゃんがやって来るまで約30分も時間がかかった。さすがに200km/hで走り続けると効いてくる。ここで解散となり、22時頃、全員自宅に無事着いたのであった。お疲れさん!
 本日の走行距離:232km(豊科ICまで)

 渋滞は覚悟していたのだが、まさかここまでひどいとは…。想像を絶するものであった。あれじゃ環境にも悪いのではないだろうか?日光レベルの紅葉なら、長野県でも拝むことができる。もうたくさんだと誰しも思った。日光の渋滞恐るべしっ!!
 翌日は雨風が激しく、特に関東では大荒れの天気だった。12、13日で日程を組まなくてよかった…。

レポート by ウメ


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